メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

RSS

無料

令和のいま「尊皇」を問う 吉田松陰の故郷・萩へ

【3】ナショナリズム 日本とは何か/吉田松陰が遺したもの①

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

アジアへの領土拡張論も

 「国を保つとは、失わないだけでなく増やすことにある。軍備を整え、蝦夷(北海道)を開墾し隙を突いてカムチャツカやオホーツクを奪い、琉球(沖縄)を幕府に参勤させ、朝鮮を攻め、北では満州(中国東北部)を割き、南では台湾やルソンの諸島を攻めるべきだ。諸国が争う中でじっとしていて、衰えない国があろうか」(以下、口語の場合は藤田の概訳)

 私には二つの疑問があった。当時はペリーの米艦隊が浦賀沖に来て間もない頃で、開国も倒幕もまだ行方が見えなかった。幕藩体制が二百数十年、鎖国も二百年以上続き、まだ二百数十の藩が割拠する中で、なぜ萩の一藩士だった松陰がここまで視野を広げ「国」を語れたのか。そしてそれがなぜ、鎖国から一転しての領土拡張論だったのかだ。

拡大松陰神社の至誠館で吉田松陰について話す島元貴・上席学芸員=1月30日、山口県萩市椿東

 島元さんが話す。「松陰は前半生は『日本』をほとんど意識していなかった。当時は広島藩だって外国のようなものですから」。19歳ごろに萩藩兵学師範となってからの「後半生」に、まず日本各地を歩く。鎖国の例外だった長崎で西洋の情報に触れ、浦賀でペリーの黒船を見た。「萩藩だけを固めればいいという意識から脱皮できたのは、そうした積み重ねでしょう」

 そこから東アジアでの領土拡張を唱えたのは、「あくまで兵学者として、欧米に取られる前に取ってしまえという考え」(島元さん)からだったのだろう。「幽囚録」には「ポルトガルやスペイン、英仏が我が国を飲み込もうとしている。遠かったヨーロッパが蒸気船の登場で隣国のようになってしまった」とある。

 日本の「生命線」のアジアへの拡大は後に現実のものとなり、国家運営と国際関係の破綻を招く。


筆者

藤田直央

藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

藤田直央の記事

もっと見る