【4】ナショナリズム 日本とは何か/吉田松陰が遺したもの②
2019年05月09日
「筆を執ればすなわち日本魂の三字を下すのみ」。幕末に筆談で自身をそう表した勤皇の僧・黙霖(1824~97)。耳と口が不自由な身ながら、思想家・吉田松陰と往復書簡による「論争」をし、松陰の尊皇思想に影響を与えた。一体どんな人物だったのか。
前回「令和のいま『尊皇』を問う 吉田松陰の故郷・萩へ」に続き、黙霖を追う。
黙霖の故郷は今の広島県呉市の郊外、瀬戸内海に面した長浜という集落だ。生誕の地をこの2月、穏やかな陽気の日に訪れた。
民家の間を縫う路地の奥に、2階建ての白い土蔵があった。「石泉(せきせん)文庫」と呼ばれ、江戸後期の名僧・僧叡がこの地で開いた私塾の図書館にあたる。黙霖は学問に目覚めた10代後半、ここにこもって勉強したという。今も歴史や和歌などの古典、経典などの写本が約5千冊保存され、近くの専徳寺が虫干しで入れ替えをしながら管理している。
住職の大洲誠史さん(52)に案内され、木造の急な階段をきしませながら上ると、屋根裏部屋に出た。両側の壁を埋める棚に収まりきらない本が、床に積まれている。
「黙霖は若くして(20歳で)大病で耳と口が不自由になります。その後に、ここで学んだ読み書きが役立ちました」
黙霖は諸藩を回って名僧や学者から筆談で学び、欧米列強による開国要求や、国内に募る幕府への不満を知り、倒幕と「王政復古」を説くようになる。書簡を交わした松陰同様に幕府からは危険視され、再三投獄されたが、刑死した松陰と違い生きて明治維新を見た。
JR呉駅からタクシーに乗る。運転手の年配の男性は黙霖を知らないが、スマホで場所を示すと「三ツ蔵かいねえ」とその場まで車を走らせた。蔵が三つ並んだような旧澤原家住宅は国の重要文化財になっている。アニメ映画「この世界の片隅に」で主人公のすずがその前を通るシーンが描かれ、最近はファンがよく来るのだという。映画「この世界の片隅に」の「三ツ蔵」のシーン
明治維新による「王政復古」で生まれた近代国家・日本で、呉は軍港として発展し、天皇の名の下に行われた太平洋戦争で空襲を受ける。その戦時下の日常を「この世界の片隅に」は描いた。すずさんは勤皇僧・黙霖を知っていただろうか……。
三ツ蔵の片隅にあった「終焉の地」の碑の脇には、水仙が数輪咲いていた。
1894(明治27)年、日清戦争で港が輸送拠点となった広島市に大本営が置かれ、指導にあたる明治天皇に随行して伊藤も東京から移ってきた。伊藤は松陰門下だった長州藩士の頃から黙霖を知っており、滞在する旅館に黙霖を招き、「先生」と呼んで再会を喜んだ。黙霖も、維新の志士から新国家の要になった伊藤をねぎらったという。
この話を、呉市文化財保護委員の松下宏さん(83)は市職員当時、澤原家の子孫から聞いた。1997年の黙霖没後百年を機に、有志で作った黙霖の伝記に盛り込んだ。
「黙霖にすれば、幕末に自分の考えていたことができたということでしょう。外国から大きな船が来る。各藩ばらばらでは対応できない。日本には天皇というのがおるんだからそれを立てて、ピラミッドをこさえて日本が一つになればいいじゃないかと」
黙霖は60歳になってもげた履きで、着物は冬も夏も替えず、前がはだけても気にしなかった。子どもたちに乞食坊主とからかわれたり、一緒に遊んだりすることもあったという。
「信じるのは自分が接し、学んだものだけ。身は一つ、物差しは一本。だから普通なら圧力に負けてできないような活動ができたんでしょう」と松下さんは話す。
それでも、黙霖は松陰に似ている。幕藩体制が揺らぐ中で、そんな憂国の人物らがつながって育んだ「天皇を中心とした日本」という意識が、明治へと流れ込んでいく。
瀬戸内の広島・呉から、日本海に臨む山口・萩に話を戻そう。
欧米列強が迫る幕末、この国はどうすればいいのか。松陰は故郷の萩にあって、呉出身で倒幕を唱える勤皇僧・黙霖との往復書簡による「論争」の末に、「本末転倒」を悟った。
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