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松陰と論争の僧とは 「この世界の片隅に」の呉へ

【4】ナショナリズム 日本とは何か/吉田松陰が遺したもの②

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

拡大黙霖が晩年を過ごした旧澤原家の「三ツ蔵」。右下は「宇都宮黙霖終焉之地」の碑=2月5日、広島県呉市長ノ木町

 「筆を執ればすなわち日本魂の三字を下すのみ」。幕末に筆談で自身をそう表した勤皇の僧・黙霖(1824~97)。耳と口が不自由な身ながら、思想家・吉田松陰と往復書簡による「論争」をし、松陰の尊皇思想に影響を与えた。一体どんな人物だったのか。

拡大吉田松陰の尊皇思想に影響を与えた勤皇僧・黙霖。写真は晩年の1896(明治29)年、72歳頃の撮影とされる=広島県呉市史より

 前回「令和のいま『尊皇』を問う 吉田松陰の故郷・萩へ」に続き、黙霖を追う。

耳と口は不自由、筆談で修行

 黙霖の故郷は今の広島県呉市の郊外、瀬戸内海に面した長浜という集落だ。生誕の地をこの2月、穏やかな陽気の日に訪れた。

 民家の間を縫う路地の奥に、2階建ての白い土蔵があった。「石泉(せきせん)文庫」と呼ばれ、江戸後期の名僧・僧叡がこの地で開いた私塾の図書館にあたる。黙霖は学問に目覚めた10代後半、ここにこもって勉強したという。今も歴史や和歌などの古典、経典などの写本が約5千冊保存され、近くの専徳寺が虫干しで入れ替えをしながら管理している。

 住職の大洲誠史さん(52)に案内され、木造の急な階段をきしませながら上ると、屋根裏部屋に出た。両側の壁を埋める棚に収まりきらない本が、床に積まれている。

拡大黙霖がかつて学んだ「石泉文庫」を、管理する専徳寺住職の大洲誠史さんが案内してくれた=2月5日、広島県呉市広長浜3丁目

 「黙霖は若くして(20歳で)大病で耳と口が不自由になります。その後に、ここで学んだ読み書きが役立ちました」

 黙霖は諸藩を回って名僧や学者から筆談で学び、欧米列強による開国要求や、国内に募る幕府への不満を知り、倒幕と「王政復古」を説くようになる。書簡を交わした松陰同様に幕府からは危険視され、再三投獄されたが、刑死した松陰と違い生きて明治維新を見た。

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筆者

藤田直央

藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)

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