藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【5】ナショナリズム 日本とは何か/吉田松陰が遺したもの③
思想家・吉田松陰は幕末、欧米列強の開国要求に押される幕府要人の暗殺を企てたとして29歳で斬首となる。だが実は27歳で、通商による国力増強こそ独立を保つ道であるという「開国による攘夷」を唱えるに至っていた。
その頃、幕府が米国との間で通商条約を調印。思想を行動に移すことを信条としてきた松陰は、岐路に立つ。
1858年に欧米列強との間で初めて結ばれたこの日米修好通商条約は、「開国による攘夷」の先駆けととらえることもできた。それでも松陰は憤った。幕府が時の孝明天皇の許可を得ていなかったからだ。
それは勤皇の僧・黙霖との論争で達した「尊皇のための攘夷」という境地と相いれなかった。違勅条約を破棄させようとする幕府への諫言(かんげん)が、松陰が斬首となる老中暗殺計画へと至る。
そこに私は、松陰の切迫感を感じる。黒船での開国要求で力の差を見せつける欧米に対し、松陰はすさまじい思想の急展開をもって、それでも守るべき日本とは何かを突き詰めた。
手段としての攘夷は、鎖国でも、かつて唱えた領土拡張でもなく、開国と通商だった。そして、それによって守るべき日本の日本たるゆえんが、この島々を天皇が治めることだと考えた。「皇朝は万世一系。君臣一体、忠孝一致が我が国をあらしめている」(1855年の「士規七則」)。天皇の下にすべての民が家族のようにつながってきたという、皇国史観に基づく国家観だ。
それを松陰は「国体」と呼ぶようになった。
松陰は「対策一道」で開国について、倒幕によって実現すべしとまでは言っていないが、歴史上は天皇による支配が正統だという皇国史観から説いている。「通商に打って出るというのは君主が代々継いできた道だ。鎖国は徳川幕府が途中から始めた末世の悪政である」とし、海軍や在外公館を整えて開国すれば「決して国体を失うに至らず」と述べた。
その頃、後に初代首相となる伊藤博文は松陰門下で17歳の長州藩士だった。「国体」を追求する師の切迫感を、どう受け止めたのだろう。
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