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松陰門下の初代首相 伊藤博文に継がれたもの 

【5】ナショナリズム 日本とは何か/吉田松陰が遺したもの③

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

伊藤、「国体」を欲する

拡大幕末の伊藤博文(右)と高杉晋作。ともに吉田松陰の門下だった
 当時の松陰と伊藤のやり取りは記録に乏しい。だが、伊藤にとってもそうした切迫感は、明治政府の中枢へと進むにつれ、募っていったのではないか。幕府を倒した上に二百数十の藩をなくし、ひとかたまりの近代国家を作るには、「国体」が欠かせなかったからだ。

 伊藤の言葉をたどってみる。周辺に語った話や講演などを集めた「伊藤公直話」(1936年)によると、「予は少時より山陽の日本政記を愛読し、彼の勤王論に感激する」と述べている。江戸後期の儒学者・頼山陽の日本政記は皇国史観の歴史書だ。

 伊藤は松陰の皇国史観にも、武士のあり方を説いた士規七則などを通じて触れただろう。連載の前回「松陰と論争の僧とは 『この世界の片隅に』の呉へ」では、松陰と論争しその尊皇思想に影響を与えた呉の勤皇僧・黙霖とも伊藤は面識があったことを紹介した。そんな出会いから「国体」への認識を深めたはずだ。

 伊藤が制定に尽くした明治憲法は、第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と掲げる。歴史をふまえれば日本の支配者は天皇である、とあえて確認するかのような書きぶりだ。伊藤が著者である「憲法義解」には、「憲法に特に天皇の大権を掲げるのは、それが憲法によって新設されたということではなく、固有の国体が憲法によってますます強固になることを示すものだ」とある。

 そこでさらに考えてみる。その「国体」を保つために松陰は「開国による攘夷」論を唱えるに至ったのだが、それは、攘夷が倒幕の旗印とされながらも幕府による開国が伊藤らの明治政府へ継がれたことに、どこまで影響していたのか。

「開国による攘夷」論の影響

 倒幕勢力は尊皇攘夷を掲げたが、明治政府は、幕府が米国に続き欧州の列強とも結んだ通商条約を引き継ぎ、その上で不平等な内容の改正に努めた。松陰の故郷・山口県萩市にある松陰神社の神職で松陰研究者の島元貴さん(37)は、「開国による攘夷で独立を保つ、という松陰の精神が継がれたのだと思います」と話す。

 ただ、「伊藤公直話」によれば、松陰について伊藤はこう語っている。

拡大伊藤公直話=国立国会図書館所蔵
 「毛利(長州藩)の史料調所で松陰のことを調べているが、安政5年に松陰が書いた書類を発見した。松陰は全く攘夷論者でも討幕論者でもない証拠が上がった。つまり議論が変わったのである」

 安政5年は1858年で、松陰が「開国による攘夷」を唱えた「対策一道」を記した年だ。この伊藤の言だけでは「松陰が書いた書類」が「対策一道」とは言い切れないが、そうであってもおかしくない。そしてここで重要なのは、伊藤が「議論が変わった」と驚いていることだ。

 伊藤はおそらく、維新の動乱が一段落し、師の松陰に関する資料をあれこれと調べられるようになるまで、松陰が攘夷・倒幕論者だという世評を受け入れていた。その見方を「安政5年に松陰が書いた文書を発見」したことでようやく改めたのだ。

 つまり、明治政府は確かに幕府の開国の方針を引き継いだ。しかしそれは初代首相となる伊藤が、通商に打って出ることで独立を保つという「開国による攘夷」論を、松陰から生前に学んだことによるものではなかった可能性が高い。

 ではなぜ開国の方針が引き継がれたのか。伊藤は1899年、

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筆者

藤田直央

藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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