【7】ナショナリズム 日本とは何か/日比谷焼き打ち事件と「国民」①
2019年05月30日
「国民」の代表である国会議員が、戦争で奪われた領土を取り戻すために「戦争しないと」と語る。しかも、戦争でその領土から追われた「国民」に対してだ。
戦後が遠ざかる令和の始まりに、昭和末期に生まれた国会議員がそんなことを口にする。その戦争とは、日本が敗れた第2次世界大戦。領土とは、ロシアの前身であるソ連に奪われた北方四島だ。
ただ、ソ連のそのまた前身であるロシアと戦った日露戦争(1904~05)では、「国民」は勝利に沸き、見返りはないのかとすさまじい暴動を起こした。
明治末期から大正にかけ、日本に「国民」という、ひとまとまりのようでいて茫漠(ぼうばく)とした存在が立ち現れた。その頃を、この連載でこれから数回を費やして考えたい。
「国民」の前提となるのは、ひとまとまりの近代国家だ。日本では今から約150年前に明治維新によって生まれたが、それまで約260年続いた徳川幕府のもと、幕末に二百数十を数えた諸藩は、お互いに“外国”のようだった。
薩長両藩が率いた倒幕の末に新しい国ができ、藩はもうなくなったのだと言われても、市井の人々はなかなかついていけなかっただろう。
しかも、この近代国家のかたちを「国民」に示す大日本帝国憲法は、明治22(1889)年にようやく公布され、そこに「国民」の文字はなかった。人々は、万世一系の統治者とされた天皇の「臣民」として義務を負い、権利を与えられた。
「憲法の発布」になじみのない巷(ちまた)で、「天子様がけんぷのはつぴ(絹布の法被)を下さる」と語られる様を、東京朝日新聞は書いた。憲法によって議会はできたが、自分たちが国家を動かしうる「国民」だという意識は、人々にまだ希薄だった。
それからわずか16年後に、「国民」による空前の暴動が国家を揺るがすことになる。
1905(明治38)年9月5日、日露戦争での講和に反対する「国民大会」が東京・日比谷公園で開かれた。そこに端を発する日比谷焼き打ち事件だ。都心のあちこちで路面電車や交番が焼かれ、新聞社や内相官邸が襲われ、翌日に明治天皇が戒厳令を出すに至った。
死者は民間人17人、けが人は警官、消防士、軍人も含め2千人。治安面の教訓として後年にまとめられた政府の内部報告書「所謂日比谷焼打事件の概況」(1939年、内務省)によれば、「指揮者は壮士風、書生風、職人風、車夫体」とある。路面電車を止めた群衆は「国民のお通りだ」と声をあげた。「日比谷事件以降は、社会一般の利害を理由とする大規模の大衆運動頻発」とも記されている。
日比谷焼き打ち事件で現れた「国民」とは、一体何だったのか。どのように生まれて、どこへ向かおうとしたのか。
114年前に事件が起きた現場を巡り、都心を歩いてみた。明治の思想に詳しい作家の関川夏央さん(69)に同行を願った。かつてインタビューで聞いた言葉が忘れられなかったからだ。21世紀の初めに政治の展望を語ってもらう企画で、「大衆化社会」の危うさを指摘し、「その始まりは日比谷暴動にある」と語っていた。
関川さんにいろいろ尋ねようと、私は朝日新聞が1879年に創刊されて以来の報道ぶりをデータベースで下調べしていた。「国民大会」というキーワードで記事を検索すると、この日露戦争講和反対集会がほぼ初出という珍しさだった。
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