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戦争に沸いた「国民」 暴動の都心を作家と歩く

【7】ナショナリズム 日本とは何か/日比谷焼き打ち事件と「国民」①

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

「国民」が現れ、暴動を起こした

 明治末期から大正にかけ、日本に「国民」という、ひとまとまりのようでいて茫漠(ぼうばく)とした存在が立ち現れた。その頃を、この連載でこれから数回を費やして考えたい。

 「国民」の前提となるのは、ひとまとまりの近代国家だ。日本では今から約150年前に明治維新によって生まれたが、それまで約260年続いた徳川幕府のもと、幕末に二百数十を数えた諸藩は、お互いに“外国”のようだった。

 薩長両藩が率いた倒幕の末に新しい国ができ、藩はもうなくなったのだと言われても、市井の人々はなかなかついていけなかっただろう。

 しかも、この近代国家のかたちを「国民」に示す大日本帝国憲法は、明治22(1889)年にようやく公布され、そこに「国民」の文字はなかった。人々は、万世一系の統治者とされた天皇の「臣民」として義務を負い、権利を与えられた。

 「憲法の発布」になじみのない巷(ちまた)で、「天子様がけんぷのはつぴ(絹布の法被)を下さる」と語られる様を、東京朝日新聞は書いた。憲法によって議会はできたが、自分たちが国家を動かしうる「国民」だという意識は、人々にまだ希薄だった。

拡大大日本帝国憲法が公布される4日前の明治22(1889)年2月7日付の東京朝日新聞の社説の一部。後ろから4行目に「けんぷのはつぴ」とある

 それからわずか16年後に、「国民」による空前の暴動が国家を揺るがすことになる。

 1905(明治38)年9月5日、日露戦争での講和に反対する「国民大会」が東京・日比谷公園で開かれた。そこに端を発する日比谷焼き打ち事件だ。都心のあちこちで路面電車や交番が焼かれ、新聞社や内相官邸が襲われ、翌日に明治天皇が戒厳令を出すに至った。

拡大日比谷焼き打ち事件を伝える「東京騒擾画報」(1905)から、夜に路面電車を焼く群衆=東京都立図書館所蔵

 死者は民間人17人、けが人は警官、消防士、軍人も含め2千人。治安面の教訓として後年にまとめられた政府の内部報告書「所謂日比谷焼打事件の概況」(1939年、内務省)によれば、「指揮者は壮士風、書生風、職人風、車夫体」とある。路面電車を止めた群衆は「国民のお通りだ」と声をあげた。「日比谷事件以降は、社会一般の利害を理由とする大規模の大衆運動頻発」とも記されている。

 日比谷焼き打ち事件で現れた「国民」とは、一体何だったのか。どのように生まれて、どこへ向かおうとしたのか。

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筆者

藤田直央

藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)

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