【8】ナショナリズム 日本とは何か/日比谷焼き打ち事件と「国民」②
2019年06月06日
明治に生まれた近代国家・日本で、「国民」に目覚めた人々による空前の暴動。それが1905年の日比谷焼き打ち事件だった。9月5日、東京・日比谷公園での「国民大会」で日露戦争講和への反対を訴えた群衆は、皇居の二重橋前へ行進し、警官隊とぶつかりながら、鍛冶橋通りを京橋・銀座へ向かった。
当時は東京駅はなく、新橋から鉄道は伸びていない。まだ瓦葺きの和風建築が多い大通りに、ちょっと背の高い洋風建築も目立ってきた。そんな繁華街を路面電車が走り始めた頃だ。
関川さんが言った。
「初の国家的総力戦に近い日露戦争の渦中から『国民』が現れ、見返りへの期待を高めた。日比谷焼き打ち事件は、そんな国民の主人公意識と被害者意識の表れだった」
国立公文書館アジア歴史資料センターによると、日露戦争での日本側死者は約8万4千人で、日清戦争の約10倍。今にすれば約2兆6千億円にあたる戦費で政府は財政難となり、所得税の増税に加え、タバコや塩を専売制にして歳入増加を図った。
「臣民」には選挙権が与えられたが、25歳以上の男子に限られ納税額も条件となり、有権者は人口の数%に過ぎなかった。「主人公意識と被害者意識」を高揚させて現れた「国民」たちは、何を起こしたか。
○群衆は「国民のお通りだ。電車は停止し乗客は下車しろ。ちょっとでも動けば電車を踏み破るぞ」と言い、十数台の電車を立ち往生させた。
○国民大会後に演説大会を予定する新富座の南北数百メートルに群衆があふれた。京橋署長が解散を命じると群衆は激高し、警官隊と格闘し捕縛される者も出た。一部は内相官邸や国民新聞社の方へ向かった。
○講和条約を支持した国民新聞社に群衆が押し寄せ、「露探(ロシアのスパイ)新聞を叩き潰せ」と投石を始めた。京橋署が騎馬警官を出動させ、国民新聞社員が抜刀するなどして負傷者が数名出た。
○内相官邸の塀には、講和交渉で責任者だった外相小村寿太郎や仲介した米大統領ルーズベルトがさらし首となる絵の貼り紙がされ、群衆は興奮した。正門を突破しようとした群衆は仕込み杖などを持ち、抜刀した警官隊との渡り合いで負傷者が数十名出た。
暴動は事件名となった「焼き打ち」、つまり都心各地での連続放火へエスカレートした。明治天皇による戒厳令で軍隊が出動した翌日にようやく収束する。
1939年の政府の内部報告に戻る。「日比谷事件といえば交番所焼き打ちと同義に解される」ほど、交番の被害が多かった。浅草、下谷、神田、京橋、日本橋、新宿で襲われ、焼失219カ所、破壊45カ所。日比谷や四谷ではさらに路面電車が、浅草では教会が焼かれた。
なぜ群衆は交番を狙ったのか。
政府の内部報告は、
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