元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑤松崎哲久さんの訴訟であわや……
2019年04月14日
連載・女性政治家が見た! 聞いた! おもしろすぎる日本の政治
1992年細川さんに誘われて日本新党の結党に参加したものの、私は直後にあった7月の参院選で落選している。比例名簿1位の細川護熙氏、2位の小池百合子氏、3位の寺沢芳男氏、4位の武田邦太郎氏の4人が当選し、7位だった私は入らなかったのだ。(参考「強姦罪の審議でおじさん議員が放った有り難いヤジ」)
しかし、私はまったく落胆していなかった。当選するなんて、はなから考えていなかったからだ。
だが、彼は違った。
その様子を眺めていると、5位に搭載されている松崎哲久さんが隣にきた。
「円さん、よくそんな、あっけらかんとした顔で見てますね」
「は?」
「だってあなたの当落だってかかっているのに」
「私?私は最初から当選するなんて思ってませんもの。日本新党に参加できて、これから日本を変えていくことに関われるだけでいいんですもの」
「本当に欲の無い人ですね。じゃあ、私のことを考えて祈って下さいよ。もう少し票が伸びれば私が当選するんですから」
なるほど、国会議員が増えれば、党のためにもなる。2人で祈ったが、最後の一人は残念ながら他党が取り、松崎さんの5位当選は夢と消えた。
驚いたのは、彼の落ち込みぶりだった。まさに、見るにしのびない様子だった。
この松崎さんと私は、2年後に因縁の裁判当事者となるが、その時点では知るよしもなかった。
名簿の順位については候補者全員を集めた常任幹事会で、「細川代表に一任する形でよろしいでしょうか」と提案され、全員それに賛同していた。それでも、「上位にしてくれ」と、毎朝電話してくる人がいたと、後に細川さんから聞いたことがあるが、私は恬淡としたものだった。
7月8日(水)が参院選の公示日で、渋谷に10時に集合という知らせは早くからきていた。しかし、名簿の順位は前日の7日(火)、七夕の日まで連絡がなかった。
党本部からの電話が来て7位と言われたとき、「ラッキーセブンが3つ重なってる。良かったね、ママ」と言ってくれたのは小4の娘だ。あとで聞くと、テニスプレイヤーの佐藤直子さんが6位に不満で、一晩中怒って泣くのを細川さんらでなだめていたらしい。選管にもすでに順位を届けていたのに、佐藤さんは最後に候補を降りることになった。
えっ、そんな話、寝耳に水。
「それ、どういうことですか」
「さっき、東京高裁で判決が出たんですよ」
「ちょっと待ってください」
私は部屋に引き返した。日本新党の永田良三所長に電話するもつかまらない。一体、何が起きているのか。
思い当たるのは、松崎さんのことだ。
先述した参院選の後、日本新党を除名された松崎さんは、その処分が無効だとして日本新党相手に裁判をおこしていた。しかし、この裁判は彼が敗訴して終わっていると聞いている。おかしい。
たずね回ったところ、松崎さんがその後、国の中央選挙管理委員会を相手に裁判をおこしていて、そこで中央選管つまり国が敗訴した。それによって私の当選が結果的に無効になったという。
そんな裁判が行なわれていることを、なぜ誰も私に知らせてくれなかったのか。参考人として永田さんが日本新党代表で裁判に出たことがあったが、永田さんは国が負けることはないと高を括っていて、誰にも話していなかったという。
余談だが、原田さんとは、彼が最高検検事総長を辞められた後、ご夫妻とオペラや旅行、隅田川の花火に一緒に行くなど、親しくお付き合いをさせていただいた。「僕は円さんの用心棒役を買って出てます」とも言って下さった。
余談をもうひとつ紹介すると、三木武夫・元総理の夫人である睦子さんからも電話があった。「あなたとは親しくしているから、今回のことは本当に困るわ。どちらにも良い結果を出すわけにはいきませんものね」とおっしゃる。
私は南平台にあった元総理の自宅に睦子さんをしばしば訪ね、親しくさせていただいただけでなく、孫で後に養子となる立さんの立候補の支援をしたり、娘の紀世子さんの参院選の応援に徳島まで行ったりしている。そして、なんと松崎哲久さんは睦子さんの甥だったのだ。
その日の各紙の夕刊は、一面に、円より子、もしくは山﨑順子氏の当選無効という記事が出ていて、あまり気分のいいものではなかった。
12月2日、細川事務所で細川さんや弁護士らとの初打ち合わせを行う。
松崎さんは学習院大学教授の香山健一さんから紹介されて細川さんの日本新党を手伝うことになった。東大・ハーバード大を卒業したエリートで、優秀な人物だった。結党から参院選まで実によく働き、党則や政策など作り上げたのは、実質この松崎さんら数名といっていい。
参院選で落選したことで平常心を失っていたのだろうか、その松崎さんが突然、細川さんに「私に党の人事とお金を任せてほしい」と直訴した。若さゆえの早とちりか、自分の力を過信したのか。彼は常に独断で動くところがあり、細川さんの気分を害したことにまったく気が付かなかったようだ。
さらに、細川さんにも組織委員会にもはからず、神奈川の選挙区から次期衆院選に出ることを工作、それを党に事前連絡もせずに発表するだけでなく、党の機密情報を新聞に漏らした。そのため、党の組織委員会などから、松崎さんへの非難が集中するようになった。
企画調整本部長(他党の幹事長にあたる役職)は自分の会社の経営に専念するため、後継に松崎さんを考えていたので、彼に忠告するとともに、組織委員会にとりなしもした。しかし、党内からは松崎さんの除名コールが起きた。常任幹事会で松崎さんから事情を聴取するなどした後、倫理委員会で除名が決まった。
東京高裁の判決文などをとりよせて分析すると、松崎さんらが書いたものや、取材に応じた週刊誌の記事が高裁の判決根拠となっていることがわかった。「よくまあ、こんな根の葉もないゴシップ記事みたいなのを集めたものだ」と私たちは感心したり呆れたり。一つ一つの記事が、いかに信ぴょう性がないか、反論する材料を整え始めた。
松崎さんには怒りも何もなかった。たまたまのめぐりあわせであり、私は松崎さんが同志だと思っていたから、倫理委員会で除名が覆るよう、松崎さんの党への貢献をアピールしたほどであった。彼はその後も次々と反党行為をやったが、個人的には何の恨みもなかった。
私が最高裁で闘う気力をみなぎらせることができたのは、東京高裁がフェイクニュースまがいの週刊誌の記事を信じ切って判決を下したこと、私に連絡ひとつ寄越さずに、「参加しようと思えばできたのに」と平然と書いた姿勢であった。裁判所とはこんなにおかしなものなのかと唖然(あぜん)とし、憤りも感じた。
ただ、裁判で問われたのは、実は私のことではない。結果的に当選無効というとばっちりを受けたのは私だが、無効とされたのは日本新党の除名処分だった。
除名無効の根拠の「機密漏洩が証明できず」は、手続きの不備を指摘し、党首である細川さんを公序良俗に反すると断じているに等しい。これは受け入れるわけにいかない。
細川さんは日本新党としてすぐさま闘うことを決意。といっても高裁判決で負けたのは日本新党でも私でもない。国(中央選挙管理委員会)が上告しなくては東京高裁の判決が確定してしまう。
このように、まことにおかしな構図となり、内心ハラハラしていたが、12月8日、国は上告することを決定した。日本新党も梶谷剛さん(後に日弁連会長)や菅田文明さんら5人の弁護士を用意し、上告に参加することになった。そして翌9日、私は5人の弁護士とともに記者会見をした。
奇しくも、それは日本新党解党の日であり、新進党結党の前日でもあった。新進党の初代党首は海部俊樹元総理、幹事長は小沢一郎さん。翌日、新進党は横浜パシフィコで華々しいスタートを切る。広報を担当したのが小池百合子さんだった。
しかし、私は最高裁で負ければ辞職となる。新進党の一員にはなったが、気分は重かった。
前月の11月16日、結党当初から日本新党を支えてくれた職員の人たちと、すでに細川さんを囲んでのお別れ会はしていた。ロシア大使館に近いオシャレな店で寂しさを振り払うように、私たちはカラオケに興じた。細川さんは「いい日旅立ち」を歌った。私は永田さんと腕を組んで「銀座の恋の物語」を歌ったものだ。
細川さんらは、日本新党は解党したが、清算団体を作った。それは党の経理などの残務処理をすると同時に、除名無効といわれた裁判を闘うための母体ともなるものだった。私は毎週、弁護士と
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