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日露戦争を伝えた特派員、揺れた文学者たち

【9】ナショナリズム 日本とは何か/日比谷焼き打ち事件と「国民」③

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

明治の文豪・二葉亭四迷(左)と国木田独歩も日露戦争に揺れた

 「新聞の売れゆきがぐんとふえた」(朝日新聞社史 明治編、1995年)という日露戦争の報道は、人々に連帯感をもたらした。それは、できたての近代国家をまとめるべく明治憲法で示された天皇の「臣民」としてというよりも、初の総力戦に臨む運命共同体である「国民」としてのものだった。

 そんな連帯感を生んだ報道とは、どんなものだったのか。朝日新聞の特派員・弓削田秋江は、日露戦争において、そして日本陸軍にとって最初の大規模戦闘となった1904年の遼陽会戦に従軍した。ロシア軍の陣地「首山」を抑えた際の記事に、こんな一節がある。

「同胞は屍を戦場に曝したり」

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 日本の軍隊の忠勇をさも誇気に鮮かなる旭旗が首山の中腹に樹てられし時の如何に嬉しかりしよ。然れども此国旗を此山に樹てんが為め二千余の同胞は屍を戦場に曝したり。昨日まではさしも要害堅固なりし敵の陣地に日章旗の勇ましく飜へるを見ては歓極まって幾度か泣かんとし路の傍、畑の中、敵を睨んで突進せし最期の面影を其儘に残しつつ累々として脚下に横はる屍を見ては「アア親もあるべし、妻子もあるべし」との感先起こり、情迫りて胸は裂けんばかり塞がりぬ(1904年9月22日、東京朝日新聞)

日露戦争に従軍した朝日新聞の特派員・弓削田秋江=朝日新聞社史より

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 朝日新聞社史はこの記事を、当時の東京朝日新聞の社論を率いた主筆・池辺三山が絶賛した、ということでここまで紹介している。弓削田はそのすぐ後で、こうも書いた。

 「而して余はしみじみ思ひぬ。戦後満州解放の暁、万一にも甘き汁を列強に吸はれ、日本の国民が指を咥へて外人の背後に立つが如きとあらば、それこそ戦死者の忠魂は永遠に瞑目するの機なからめ」

 遼陽も満洲(中国東北部)の一角だった。日本にすれば、日露戦争は南下するロシアから満州を「解放」する戦いだった。

  開戦から7カ月、弓削田が満州で同胞の死を悼んでいた頃、歌人・与謝野晶子は日露戦争に出征した弟を思い「君死にたまふことなかれ」と詠んだ詩を発表した。

与謝野晶子=国立国会図書館所蔵

 「すめらみことは戦ひに おほみづからは出でまさね」と軍の頂点にある明治天皇にも触れた。評論家の大町桂月は「日本国民として、許すべからざる悪口」と批判。とげとげしい空気が社会を覆う。

 そこから戦いが終わるまでさらに一年、日本側の戦死者は陸軍中心に約8万4千人にのぼった。犠牲に見合わない「屈辱講和」への反発が、「国民」による空前の暴動、1905年9月の日比谷焼き打ち事件へとつながった。

 日比谷公園から皇居外苑、京橋、銀座へ。暴動の現場を、明治の思想に詳しい作家の関川夏央さん(69)と巡ってきた。築地の朝日新聞東京本社にたどり着き、そこでも問いを重ねるうち、かつてこの会社にいた二葉亭四迷(1864~1909)の話が出た。

二葉亭四迷さえ「勝った勝った」

二葉亭四迷(1864~1909)=朝日新聞社
 「あの重厚な二葉亭四迷さえ、勝った勝ったと喜んだんだよ」と関川さんは言った。

 日本近代小説の先駆けとされる言文一致体の「浮雲」を書いた四迷は、ロシア文学に造詣が深かった。1904年に大阪朝日新聞に入り、東京でロシアの事情や新聞翻訳の記事を書いていた。

 関川さんが触れたのは、1905年5月末の日本海海戦の時の四迷の高揚ぶりだ。日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊による戦いには、日本海の制海権、日露戦争の帰趨、ひいては近代国家・日本の命運がかかっていた。

 銀座の東京朝日新聞本社で「大勝利」を知り、牛込の知人宅に「とうとうやつたよ」と駆け込んできたという四迷の様子を、小説家の伊藤整が「日本文壇史 10」(1971年、講談社)で書いている。

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 二葉亭は言った。

 「まだ十分分らんが、勝利は確実だ。五隻か六隻は沈めたらう。昨夜はまんじりともしなかった。今朝も早くから飛び出して今まで社に詰めてゐた。結局はまだ分からんが、電報が来る度毎に勝利の獲物が次第に殖えるから愉快でたまらん。社では小使給仕までが有頂天だ。号外はもう刷れてるんだが、海軍省が沈黙してゐるから、出すことが出来んで焦りじりしている」

前日の日本海海戦の号外を求めて東京朝日新聞本社に集まった人たち=1905年5月28日、東京市京橋区滝山町(現・東京都中央区銀座6丁目)。朝日新聞社

 そして二葉亭は、「かうしちやおられん。これからまた社へ行く。大勝利だ。今度こそロス(※藤田注 バルチック艦隊のロジェストウェンスキー提督)の息の根を留めた」と言ってまた帰って行った。その顔には海軍の軍令部長か何かのやうな誇らしい表情が漲ってゐた。

 戦争の具体的な経過やロシア側の実力については誰にも負けない深い知識を持ってゐて、簡単に勝利に酔ふことに警告を発していた二葉亭も、この時はその話の中の「給仕小使」のやうに有頂天になってゐた。

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 ちなみに伊藤整はこのエピソードに続けて、四迷と、先ほどの従軍記者・弓削田秋江の意外な接点に触れている。四迷は東京朝日新聞主筆・池辺の勧めで1906年から連載小説「其面影」を書くが、20年近く前の「浮雲」以来となる小説執筆を渋る四迷を説得したのが、帰国していた弓削田だった。

 弓削田は四迷の家を訪ね、政治と文学が両立するかという議論を4時間あまり続けた。結局「其面影」では曖昧になったが、もとの四迷の構想はこうだったという。

 「彼は日露戦争のあとで、表面には出ないが社会の大きな問題となってゐた戦争未亡人のことを小説に描いて見たら、と考へてゐたのであつた。日本海海戦のときあんなに勝利に熱狂してゐた彼は、戦後になると、その犠牲者たちのことが心にかかるやうになってゐた」(「日本文壇史 10」)

 四迷は3年後に肺結核で亡くなる。関川さんはもう一人、その頃に同じ病で夭折した明治の文豪に触れた。

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