5千円札の顔・津田梅子の苦闘と見果てぬ夢
津田塾の創設者、女子教育のパイオニアが望んだ「男女平等社会」はいま
円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

津田梅子がデザインされた新しい5千円札
150年前、7歳でアメリカに留学
今からおよそ150年前の1871年、元号でいえば明治4年、廃藩置県が断行されたこの年に、岩倉具視を特命全権大使とする総勢107名の訪問団が、アメリカやヨーロッパの条約締結国12か国を歴訪する旅に出た。
その中に5人の少女がいた。彼女たちはアメリカで10年ほど留学することになっていた。欧米に後れをとらないため、そしてこれからの国の発展のためにも、女性の教育が「かなめ」になるとする黒田清隆や森有礼らの考えから、募集された少女たちである。
その一人、津田梅子はまだ7歳。最年少だった。
女子教育のパイオニアに
彼女たちが11月12日横浜港を離れるのを見た人々は、「母親は鬼に違いない」と言い合った。第1次募集ではまったく応募はなく、2次募集になって洋行経験のある親兄弟が娘や妹を応募させたという。
今のように誰もが海外旅行や留学のできる時代ではない。ついこの間まで、人々は攘夷を叫んでいたのだ。女子の教育など公(おおやけ)には行なわれていない時代でもあった。
津田梅子の父、津田仙は英語を学び、アメリカにも半年だが通訳として行き、女子教育と国際的視野の重要性を認識していた。アメリカで梅子は温かな家庭に受け入れられ、11年後、18歳で帰国する。
日本に戻った彼女は失望する。「男子が絶対権を持ち、男女間に非常な差がある。女性は自分名義の財産を持つこともできず、独立の精神を持ち合わせていない」と。
どうすれば自分の体験をいかし、日本の女性が自立していけるようになるのか。梅子は悩み、華族女学校の教師として女子教育に心血を注いだが、再び渡米する。ブリンマー大学で学び、帰国後、1900年に「女子英学塾」を設立。今の津田塾大学、私の母校の前身である。
この「津田梅子」が、今回新5千円札の顔になるという。