津田塾の創設者、女子教育のパイオニアが望んだ「男女平等社会」はいま
2019年04月17日
今からおよそ150年前の1871年、元号でいえば明治4年、廃藩置県が断行されたこの年に、岩倉具視を特命全権大使とする総勢107名の訪問団が、アメリカやヨーロッパの条約締結国12か国を歴訪する旅に出た。
その中に5人の少女がいた。彼女たちはアメリカで10年ほど留学することになっていた。欧米に後れをとらないため、そしてこれからの国の発展のためにも、女性の教育が「かなめ」になるとする黒田清隆や森有礼らの考えから、募集された少女たちである。
その一人、津田梅子はまだ7歳。最年少だった。
彼女たちが11月12日横浜港を離れるのを見た人々は、「母親は鬼に違いない」と言い合った。第1次募集ではまったく応募はなく、2次募集になって洋行経験のある親兄弟が娘や妹を応募させたという。
今のように誰もが海外旅行や留学のできる時代ではない。ついこの間まで、人々は攘夷を叫んでいたのだ。女子の教育など公(おおやけ)には行なわれていない時代でもあった。
津田梅子の父、津田仙は英語を学び、アメリカにも半年だが通訳として行き、女子教育と国際的視野の重要性を認識していた。アメリカで梅子は温かな家庭に受け入れられ、11年後、18歳で帰国する。
日本に戻った彼女は失望する。「男子が絶対権を持ち、男女間に非常な差がある。女性は自分名義の財産を持つこともできず、独立の精神を持ち合わせていない」と。
どうすれば自分の体験をいかし、日本の女性が自立していけるようになるのか。梅子は悩み、華族女学校の教師として女子教育に心血を注いだが、再び渡米する。ブリンマー大学で学び、帰国後、1900年に「女子英学塾」を設立。今の津田塾大学、私の母校の前身である。
この「津田梅子」が、今回新5千円札の顔になるという。
私が1993年7月に繰り上げ当選で参議院議員になった時、自民党衆院議員で官房長官も務めた森山眞弓さんがお祝いの会を開いてくださった。
これを機に「国会津田会」が“発足”。3カ月に1度ほど会合を持つことになり、一番後輩の私が事務局長を仰せつかった。
会食の場所としてよく使われたのが、東京都千代田区一番町のレストラン「村上開新堂」。英国大使館の裏にあるが、そのレストランの壁には「津田英学塾発祥の地」のプレートが埋め込まれている。なんでもそこは、津田梅子が生徒10人で女子英学塾を始めた場所だとか。女子英学塾が目ざしたのは、いわゆる良妻賢母教育ではなく、専門教育を得て社会に出て自立できる、オールラウンド(万能)な女性を育てること。1904年、専門学校として認可され、翌年には実力が認められて英語科教員無試験検定の資格が与えられている。
その後、校舎は同区五番町に移転したが、関東大震災(1923年)で焼失し、現在大学は小平市にある。この地に校舎ができたのは1932年(昭和7年)5月。その前年、梅子は64歳で死去した。
国会津田会の生みの親とも言える森山さんは、文化人類学者の中根千枝さんと同級生。中根さんは津田にいる頃から、東洋史や文化人類学をやりたいと考えていて、女性に初めて門戸を開いた東京大学を受験することにしていたが、女性がたった一人というのが嫌で、森山さんに「一緒に受けに行かない?」と誘ったという。
「えーっ、別に勉強したいものもないし」と渋る森山さんに「法学部は易しいから受けるだけ受ければ」と中根さん。それで二人とも東大に受かって初の女子東大生になるのだから凄い。「ふーん、そういう手があるのか」と2年後輩の赤松さんも東大へ。そして森山、赤松さんは二人とも労働省へ。
「当時、女性を採る省庁って労働省しかなかったのよ」とか。ちなみに、私が入学した時の学長藤田タキ先生は、この二人の労働省の先輩である。
中西さんや久保田さんの時代は、国立大学が女性の入学を認めていなかったから二人とも私学に入学している。
「ふーん、皆さん勉強がお好きなんだ」と感心していると、「最近は津田もレベルが落ちたわね」とキツーイお言葉。すみません。
たとえば田中寿美子、鶴見和子、片倉もと子、山川菊栄、犬養道子、大庭みな子さん。美智子皇后の相談役だったことでも知られる神谷美恵子(精神科医)さんも先輩で、私は1年生の時、彼女の「精神医学概論」の集中講義を受け、精神科医になろうと本気で考えたものだ。
ただ、私自身は入学式に遅刻して、学生だけではなく、先生たちにも顔が知れ渡ってしまうような不名誉な学生だった。一番前の扉からそっと入ったつもりだったのに、階段教室で行なわれていたこともあり、全員にバレてしまったのだ。
RとLの発音ができないで先生に立たされる。立派な竹林があって、たけのこがニョキニョキ出ているのが嬉しくて引っこ抜いたら、管理のおじさんに「コラーッ、それは売り物だ」と怒鳴られる。まったくとんでもない学生だった。そのうえ、神谷先生や中根千枝さんのようにもう一度勉強し直す根性もなかった。
だから、「津田を出てます」なんて言いたくなかったのに、「国会津田会」かあ……。トホホという感じだった。
おまけに、私たちは「津田マフィア」と恐れられた。そもそも、津田梅子は結婚していない。女子教育に生涯捧げて、何か真面目すぎて、NHKの朝ドラにはなりそうもないと思っていた。「日本銀行券」の顔。これは似合いかもしれない。ただ、もっと若い時の美しい写真もあるのに。そこは、津田塾生としてはちょっと不満である。
梅子は18歳で帰朝するが、仕事もなく、伊藤博文(後の総理)に誘われて、子どもの家庭教師をしばらくする。1885年華族女学校が創立され、梅子は伊藤の推選で奉職するが、学問を身だしなみの一つぐらいに考え、勉学意識に乏しい女生徒たちに梅子は物足りなさを感じていた。
25歳になっていた梅子には結婚話もたびたびあったが、彼女には結婚よりも考えたいことがあった。1871年にともにアメリカに渡った少女たち、特に仲の良かった山川捨松が大山巌の後妻になること、永井繁子が後の瓜生男爵と結婚したことに不満さえ抱いていた。
――長い間、私たちを留学させてくれたのは何のためだったのか。皇后陛下も「成業帰朝の上は婦女の模範とも相成るよう」とお言葉を下されたではないか。
梅子は日本女性がこれでいいのか、私のやるべき仕事は何か、もっと魂を打ち込めるような仕事をしたいと考え続け、再びアメリカに留学したのである。
この奨学金制度にはキリスト教クエーカー派の人々が多大な協力をしてくれた。梅子が英学塾を立ち上げてからも、クエーカー派の支援は多大であった。
帰国後、35歳の時(1898年)に彼女はアメリカ、コロラド州で開かれた万国婦人連合大会デンバー会議に日本の女性代表として出席し、3000人の聴衆を前に演説している。
「日本も世界も婦人問題が真っ先に取り上げられるような日の来ることも遠くはあるまい」と言い、「婦人(女性)は全世界を通じて、奴隷や人形のような無自覚の状態から立ち上がり、真に男子の協力者となり、対等の地位を獲得することができるであろう」と語った。
梅子は女性が男性と対等の地位を持てる社会を切望し、そのためには女子教育が必要だと確信する。しかし、彼女にも悩みはあった。彼女は自分の能力を過信してはいないし、謙虚であった。
普通の女性に比べて自分が幸福だと思うのは、教育の機会に恵まれ、望み通りの教育を受けることができた点だ。だからこそ「責任は重い」と感じ、時にそうした幸せな境遇を空恐ろしく思ったりしている。
「なぜ力のない私が、それほど責任の重い道を選ばなければならなかったのか」。彼女は常日頃、思い悩んでいた。私塾を作って女子教育に尽くしたいという思いは10年ほど胸に秘めていたが、こうした悩みと財政的な問題で、なかなか形にできなかった。
しかし、胸の内を打ち明けると、父親も大山捨松や新渡戸稲造ら長年の友人たちも賛成してくれた。なかには、当時の高年棒のキャリアウーマン華族女学校教師の座を投げ打っての暴挙に反対の人たちもいたが。
1900年(明治33年)9月14日の開校式。十畳の座敷で梅子は式辞を述べた。
英学塾の目的は色々あるが、主は「将来英語教師の免許状を得たいと望む人々に確かな指導を与えたいことだが」と言ったうえで、彼女は付け加えた。
「専門の学問を学ぶと、とかく考えが狭くなる傾向がある。一つのことに熱中すると他のことを忘れがちになるから」
何事にも役立つ女性になるには、他の事も粗略にしてはいけないという梅子。そうした理念から、英学塾の授業には、時事問題も音楽も、そして新渡戸稲造の「武士道」の講義もあった。
クエーカー派は正しくはフレンド派といい、17世紀半ば英国でジョージ・フォックスによって誕生し、アメリカに渡って、種々の社会的貢献に従事している。梅子が再渡米で留学したのは、ペンシルバニア州フィラデルフィアの西に位置するブリンマー大学だが、フィラデルフィアはクエーカー派の偉大な指導者ウィリアム・ペンが活躍した土地である。彼は信仰の自由をかかげ、一人ひとりが自分の信じる形で神を礼拝すれば良いという自由な考えの持ち主だ。津田梅子も学生に信仰を強制しなかった。
クエーカー派は非暴力主義で、徹底した平等主義を信条としている。神の前に人は誰も皆同じと考えるから、リンカーンより前に奴隷制度に反対していた。当然ながら、男女は平等だ。牧師制度を持たず、教会の代わりにミーティングハウスで礼拝をする。その役員も男女同数で、多くの女性が重要な役割を負う。女性にも高い知識と教養が望まれるのである。
梅子が学んだブリンマー大学は創立者がクエーカー教徒で、教育の目的は自立した女性の育成であり、アメリカで初めて学生自治会が誕生した女子大であった。梅子が設立した英学塾(今の津田塾)もリベラルで平和主義で、なにより女性の自立をうたっている。
「看板事件」というのがあった。1944年(昭和19年)5月に軍隊が小平の校舎に移転してきて、教室はすべて軍が使用することになった。正門の左右には軍の門標が掲げられた。学校の標札が外されたことに憤慨した学生数名が軍の標札を深夜に密かに取り外し、学校横に流れる多摩川に流した。
翌朝、大騒ぎになる。軍は犯人を調べ出せという。学長だった星野あい先生は軍に陳謝しながらも、「ことの起こりは門の両方に軍標を掲げたことにあるから、軍の門標を片側だけにして、学校の門標も残してほしい」と訴え、聞き入れられた。
学生全員は密かに拍手喝采。在学していた夏目漱石の孫娘が家に帰って母親に話したら、「それはよくやったわね、さすが津田!」と褒められたとか。
それは学徒出陣で戦地に赴く学生たちに、「必ず死なずに帰ってきてほしい」と祈るキャンドルの行進であった。
私の恩師である天満美智子先生(後の学長。バイオリニスト天満敦子さんは姪)は婚約者が戦死し、生涯独身を通された。RとLの発音ができない私を立たせたのはこの天満先生である。厳しい先生で、津田梅子を偲(しの)ばせたが、勉学以外では優しい先生であり、私の選挙の応援もしていただいた。
私はいまもよく、梅子が卒業式で語ったという言葉を思い出す。それは、
「この学校で学べたことを感謝し、社会のため世界のために働きなさい」
である。
明治の時代、高等教育を受けられる女性は本当に少数だった。戦後の私の時代でも、女性の4年制大学進学率はわずか5%程度だった。成績優秀な女性が、「弟を大学に行かせたいから」と就職を選ぶ時代だったのだ。「女に教育はいらない」という考えも残っていたし、娘に高等教育を受けさせたくても経済的事情が許さなかったのだ。
いま、多くの女性が大学に進学するようになった。しかし、いまだに医学部の入試で女性が差別されたり、「理系になんていくと結婚できないぞ」と言われたりする。
性別にも年齢にもとらわれず、自分の可能性を信じて好きな道を進んでいけるような社会の実現には、まだ道半ばなのだろうか。津田梅子が100年以上も前に望み、実践しようとしたことは、いまだに……
梅子は女子教育のパイオニアであり、多くの有為の女性たちを輩出している津田塾創設者であり、成功者として受け止められて、今回、新札の顔に選ばれたのであろう。
だが、梅子の人生はある意味、数奇な運命であり、苦悩に満ちた人生だったのではないかと思える。女性初の留学生を「親は鬼か」と言い合った当時の人々の言葉には、「国策に利用されるかわいそうな少女たち」との思いがあったのは明らかだ。
梅子が18歳で帰国した日本は、当初の思惑と違い、彼女たちを「活(い)かす」ことを考えてはいなかった。いわば放り出された形となった。だからこそ、「自ら考え行動する」ことを実践したのだ。
そして山川捨松と終生の友として助け合ったのは、同じ運命を甘受しなければならなかったという強い絆があったからだろう。
梅子が18歳で帰国して感じたカルチャーショックは、私たちがいま感じるものの比ではなかったに違いない。そこで、自分に課せられた「使命」を果たしたいという強い思い……。
梅子の重責と苦悩、さらに英学塾を創設運営する苦労は大きく、それがじわじわと梅子の身体を蝕(むしば)んでいったのではないだろうか。
1917年、52歳で糖尿病で入院。「仕事がなくては生きる価値がない。したいことは多く、成し得たことは少ない。いまやめるのは残酷だ」と嘆いている。翌年も何度か入院し、ついに54歳で塾長を辞任。64歳で死去するまで静養の生活を送った。
やり残したことが多々あったのではないか。数奇な運命と重責と、それでも果敢に切り開いていった梅子の人生を思う時、私たちはただ成功者として彼女を見るのではなく、彼女がやり残したことを、後に続くものとして叶(かな)える努力をしなければと思うのである。
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