5千円札の顔・津田梅子の苦闘と見果てぬ夢
津田塾の創設者、女子教育のパイオニアが望んだ「男女平等社会」はいま
円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長
津田塾発祥の地で「国会津田会」
私が1993年7月に繰り上げ当選で参議院議員になった時、自民党衆院議員で官房長官も務めた森山眞弓さんがお祝いの会を開いてくださった。

国会津田会での食事会。左から中西珠子さん、森山眞弓さん、久保田眞苗さん、円より子、石田美栄さん、赤松良子さん=1994年3月14日
当時は、1955年の結党以来、一貫して与党だった自民党が政権から下野し、私がいた日本新党の細川護熙代表を首相とする非自民連立政権が成立していた。せっかくならと、細川内閣で文部大臣になった赤松良子さん、経企庁長官の久保田眞苗さんや、参議院議員の中西珠子さん、衆議院に初当選した石田美栄さんも集い、6人で食事をした。全員、津田の同窓生だった。
これを機に「国会津田会」が“発足”。3カ月に1度ほど会合を持つことになり、一番後輩の私が事務局長を仰せつかった。
会食の場所としてよく使われたのが、東京都千代田区一番町のレストラン「村上開新堂」。英国大使館の裏にあるが、そのレストランの壁には「津田英学塾発祥の地」のプレートが埋め込まれている。なんでもそこは、津田梅子が生徒10人で女子英学塾を始めた場所だとか。女子英学塾が目ざしたのは、いわゆる良妻賢母教育ではなく、専門教育を得て社会に出て自立できる、オールラウンド(万能)な女性を育てること。1904年、専門学校として認可され、翌年には実力が認められて英語科教員無試験検定の資格が与えられている。
その後、校舎は同区五番町に移転したが、関東大震災(1923年)で焼失し、現在大学は小平市にある。この地に校舎ができたのは1932年(昭和7年)5月。その前年、梅子は64歳で死去した。
先輩からのキツーイお言葉に、すみません!
国会津田会の生みの親とも言える森山さんは、文化人類学者の中根千枝さんと同級生。中根さんは津田にいる頃から、東洋史や文化人類学をやりたいと考えていて、女性に初めて門戸を開いた東京大学を受験することにしていたが、女性がたった一人というのが嫌で、森山さんに「一緒に受けに行かない?」と誘ったという。
「えーっ、別に勉強したいものもないし」と渋る森山さんに「法学部は易しいから受けるだけ受ければ」と中根さん。それで二人とも東大に受かって初の女子東大生になるのだから凄い。「ふーん、そういう手があるのか」と2年後輩の赤松さんも東大へ。そして森山、赤松さんは二人とも労働省へ。
「当時、女性を採る省庁って労働省しかなかったのよ」とか。ちなみに、私が入学した時の学長藤田タキ先生は、この二人の労働省の先輩である。
中西さんや久保田さんの時代は、国立大学が女性の入学を認めていなかったから二人とも私学に入学している。
「ふーん、皆さん勉強がお好きなんだ」と感心していると、「最近は津田もレベルが落ちたわね」とキツーイお言葉。すみません。
錚々たる津田の卒業生たち

同窓会100周年シンポジウムに参加した、津田卒業生。右から、司会の有馬真喜子、久保田眞苗、森山眞弓、赤松良子、石田美栄、山中燁子、円より子、大森礼子、田嶋陽子さん=2005年5月21日
確かに、津田の先輩たちには、錚々(そうそう)たるメンバーがいる。
たとえば田中寿美子、鶴見和子、片倉もと子、山川菊栄、犬養道子、大庭みな子さん。美智子皇后の相談役だったことでも知られる神谷美恵子(精神科医)さんも先輩で、私は1年生の時、彼女の「精神医学概論」の集中講義を受け、精神科医になろうと本気で考えたものだ。
ただ、私自身は入学式に遅刻して、学生だけではなく、先生たちにも顔が知れ渡ってしまうような不名誉な学生だった。一番前の扉からそっと入ったつもりだったのに、階段教室で行なわれていたこともあり、全員にバレてしまったのだ。
RとLの発音ができないで先生に立たされる。立派な竹林があって、たけのこがニョキニョキ出ているのが嬉しくて引っこ抜いたら、管理のおじさんに「コラーッ、それは売り物だ」と怒鳴られる。まったくとんでもない学生だった。そのうえ、神谷先生や中根千枝さんのようにもう一度勉強し直す根性もなかった。
だから、「津田を出てます」なんて言いたくなかったのに、「国会津田会」かあ……。トホホという感じだった。
おまけに、私たちは「津田マフィア」と恐れられた。そもそも、津田梅子は結婚していない。女子教育に生涯捧げて、何か真面目すぎて、NHKの朝ドラにはなりそうもないと思っていた。「日本銀行券」の顔。これは似合いかもしれない。ただ、もっと若い時の美しい写真もあるのに。そこは、津田塾生としてはちょっと不満である。