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沖縄復帰と相克 戦後に現れた「国体」日米安保

【12】ナショナリズム 日本とは何か/沖縄と「祖国」②

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

興味をひかれた1967年10月の日記

拡大瀬長の1967年9~11月の日記。この期間だけで4冊あり、表紙上に96~99と通し番号が書かれている=那覇市にある瀬長の資料館「不屈館」で。藤田撮影

 瀬長が大量に残した日記の中で、なぜ1960年代後半か。本土でその頃、首相の佐藤栄作が「民族の悲願」として沖縄返還を唱え、米国との間で焦点となった米軍基地の扱いをめぐる交渉がヤマ場を迎えていたからだ。

 「基地のない日本」を唱えてきた瀬長が、当時どういうスタンスをとっていたのか、自分の目で確かめておきたかった。

 B5ノートに万年筆で書かれた文字が走る。興味をひかれたのは、67年10月に沖縄人民党の委員長となっていた瀬長が、パスポートを持って11年ぶりに東京を訪れた際、本土メディアの取材を受けたというあたりの日記の記述だ。概要はこうだ。

 「記者は盛んに本土基地容認論を引き出そうとする。本土なみに基地を縮小し憲法が適用され施政権を返還するといっても反対するか。反対する。我々は日本人民の立場で考えている。基地つき返還論は支配者アメリカの立場から論じている。全土を核基地化し、アメリカの核の傘の下にいちだんと深くひきずりこもうとしている。即時無条件全面返還を勝ち取るよう、大国民運動を盛り上げる道を確保する」

拡大1967年11月、名古屋のホテルで本土メディアの取材を受ける瀬長。米軍統治下の沖縄から11年ぶりに本土渡航が認められ、北海道から鹿児島まで講演して沖縄の祖国復帰を訴えた=朝日新聞社
 米国は朝鮮半島や台湾での有事を念頭に、沖縄の米軍基地の自由使用継続を望んだ。佐藤は「核抜き、本土なみ」を探った。

 結局、沖縄は日本に復帰した後、「本土なみ」になるが、それは沖縄の米軍基地から核兵器を撤去する一方で、沖縄を日米安保条約と日米地位協定の下に置いた上でのことだった。つまり米軍基地はそのまま、というのが「核抜き、本土なみ」の中身だった。

 72年の沖縄返還はその線で、69年11月にホワイトハウスであった日米首脳会談で合意された。しかも佐藤は、有事に沖縄への核兵器持ち込みを米国に認めるという密約を、大統領のニクソンと交わしていた。

 オーバルオフィス(大統領執務室)から二人で隣の小部屋へ移っての署名だった。当時京都産業大学教授で佐藤の密使を務めた若泉敬が著書でそれを明かすのは、四半世紀後のことだ。

裏取引を見透かす?

 先の瀬長の日記には、そんな日米の裏取引を見透かすように、警戒感があらわだ。「本土なみ」に沖縄の米軍基地が縮小されれば日本復帰に応じるのか、と楽観的に問う本土メディアの記者に対し、瀬長は対極ともいえる悲観的な立場から、「基地つき返還論」は核兵器が置かれる米軍基地を沖縄から本土へ広げることになるから反対だと答えている。

 沖縄が日本に復帰しても米軍基地はほとんど減らなかったが、核兵器は撤去されるということにはなった。後知恵として言えば、瀬長の悲観論の正しさは6割ほどだったろうか。いや、有事の核持ち込みについて、佐藤・ニクソンの密約にとどまらず、日本政府は今も沖縄だけでなく日本全体について否定しておらず、8割ぐらいかもしれない。

 ともあれ、瀬長は「民族の解放」をかけた祖国復帰運動で、沖縄だけでなく日本の米軍基地をなくそうという立場を貫いた。そして、そうした沖縄の声とかけ離れた形であっても、時の首相は「民族の悲願」と唱えつつ沖縄返還にこぎつけた。

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筆者

藤田直央

藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)

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