(7)予算か外交か、はたまた二重権力か。国家戦略局、合成の誤謬に沈む
2019年04月22日
実際、この清新さを裏付ける「志」は三人に共通していた。三人の著書や対談記録などを読み込み、それぞれにロングインタビューした経験を持つ私は、そう考えている。しかし、その後トロイカは崩れて「志」は空回りし、清新さに対する国民の期待は萎えていった。
学生時代から現実的な政治改革を志していた菅直人は、イデオロギーに囚われない学生運動に携わっていた。1970年に東工大を卒業、72年には市川房枝や青木茂らを招いて土地問題の討論集会を開いている。その後、市川らが代表幹事を務める「理想選挙推進市民の会」から誘われて選挙運動を手伝った。74年には、政界からの引退宣言をしていた市川を担いで参院選に立候補させ、菅自身は選挙事務長として選挙運動を取り仕切り、市川を当選させた。
1980年代後半、私自身、大蔵省(財務省)記者クラブに所属していたため、国会近くにある国会記者会館で審議記録をメモに取る仕事の手伝いをしていたが、衆議院議員3期目の菅が委員会で土地問題を詳細に論議していたことを記憶している。「地道によく勉強している。人気先行の人ではないな」という印象を抱いた。
菅が国民的な政治家として広く認識されるようになったのは、1996年1月26日、自社さ政権、橋本龍太郎内閣の厚生大臣として薬害エイズ事件に取り組み、それまで存在を否定されていた厚生省内の同省エイズ研究班ファイルを発見した時からだろう。事件を省内の処理のみに終わらせず国民の前に引き出した。同2月9日、被害に遭った原告団に率直に謝罪した管の姿は、国民に開かれた政治の可能性を感じさせた。それまでの自民党政治ではほとんど見られなかった姿だった。
2011年、未曾有の大震災が東日本を襲った3.11の時、首相の菅直人が記者会見で見せた落ち着きと、福島第一原子力発電所が最大の危機を迎えた3月15日未明に「撤退」を強く示唆した東京電力に果敢に乗り込み、「撤退はありえない」と東電幹部を面前で叱咤したことは記憶すべきことだろう。
福島第一原発事故をめぐる菅の対応は毀誉褒貶に満ちている。しかし、チェルノブイリ級の過酷事故に遭遇した政権は菅の民主党内閣しか存在しない。また、平時の後講釈ならいくらでもできるが、国民全員の生活がかかったような衝撃的な大事故を前にして、菅は逃げることなく、悪戦苦闘しながら粘り強く対応を続けたことは事実だ。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)対応の拙さなど批判すべき点もあるが、私は率直に評価すべきだと思う。
原発事故への対応もさることながら政治家としての菅自身についても毀誉褒貶がある。もちろん、どの世界でもハードワークを続ける人間には毀誉褒貶、敵と味方がつきまとうものだが、菅も例外ではない。首相になる前、菅と付き合いの長い法政大学教授の山口二郎は、政治家としての菅について、「いい意味で上昇志向が強い。これは政治家としては悪い資質ではない」という評価をしていた。山口に改めて確認したが、この評価は現在も変わっていない。
しかし、この「上昇志向」は一般的にはしばしば裏目に出る。
1974年の参院選で市川房枝を当選させた後、76年12月の衆院選に30歳で初めて立候補したが、「上昇志向」のなせる業か誤解が幾重にも絡んだものか、落選したうえに、市川との間に後味の悪い関係を残した。
「菅氏は昨年(1976年)12月5日の衆議院選挙の際、東京都第七区から無所属候補として立候補した。この時は立候補を内定してから私に応援を求めて来た」
市川房枝は毎年1回発行していた「私の国会報告」1977年版で、菅の初立候補の事情についてこう記している。
「ところが選挙が始まると、私の名をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要したらしく、私が主張し、実践してきた理想選挙と大分異っていた。(略)彼の大成のために惜しむ次第である」(以上『復刻私の国会報告』)
もちろん、菅はその後民主党を率いて小沢や鳩山らと政権交代を成し遂げ、大成した。しかし、政権交代直後、国家予算を国民・政治の側に取り戻す大役を担った国家戦略局担当大臣となったにもかかわらず、その大役を果たしきれなかった。国家戦略局はその後、設置法案である政治主導確立法案が成立せず、実質的にはその姿を見せることがなかった。
国家戦略局はなぜここで失敗してしまったのだろうか。
私には、民主党が政権を取る11年前の金融国会の時、党代表だった菅が、大蔵省(財務省)改革を嚆矢に政と官の大改革構想を練り上げるべきだという私の提案を一蹴した言葉が思い出される。しかし、もちろんそのような単純な問題だけではない。
「国家戦略局」。その強いネーミングは、国政を担う国会議員の間に様々な思いを抱かせる。抱くイメージは、その議員が「国家」という概念に孕ませる定義の数だけあるかもしれない。
まず首相の鳩山由紀夫、それから国家戦略局構想を練った松井孝治のイメージ、考えを比較してみよう。松井はもちろん、国家予算の大所の編成機能を国民・政治の側に取り戻すことを第一に考えていた。しかし、松井に構想を練ることを命じた鳩山はもう少し別のところに重心を置いて考えていた。
「私は仕組みよりも、何を目的とするかというところを強調したかった。何でも官僚に任せてきたものから、この国家戦略局で政策の大きな柱をきちっと作り上げていこうと思いました。そこには当然、外交戦略がトップクラスに入ってくるということを想像して、またそうなるべきだと考えました。外交の大きな戦略こそここで開くのだと思っていました。国内の予算の話だけだったらまったく意味がないとは言いませんが、本当の意味でこの国のあるべき姿を作ることはできない、と考えていました」
鳩山のこの回想は考えようによっては深刻だ。松井自身も外交問題が国家戦略局に入ってくることは予想していたが、あくまで重心は予算・財政にあった。構想作成を命じた側と命じられた側が異なるところに重心を置いていたという事態は明らかに調整不足を露呈していると言える。鳩山自身、調整が不足していたことは率直に認めている。3か月余り前に代表になったばかりで時間が足りなかったことは事実だが、関係幹部は徹夜を続けてでも徹底的に話し合っておくべきだったろう。
鳩山が国家戦略局に外交問題を入れ込む考えを持っていたために、今度は外相に就いた岡田克也とぶつかった。岡田は外交はあくまで外務省に一元化してほしいと要望した。
そして、国家戦略局をめぐる最も深刻な断層は、構想を練った松井と、担当大臣となった菅の間に走っていた。その違いを一言で言えば、松井の描いていた構想では国家戦略局は国家予算編成の司令塔、菅が考えていたイメージでは国家予算を編成する際のブレーン、アドバイザー役といったところだった。
この問題で私と会見した菅は、現在とは異なる政治情勢の時だったが野党間の協力関係に気を遣い、「取材を受けたわけではない」と断りながら言葉少なに話した。
「国家戦略局長と党の政調会長が兼務で閣内に入っていく。そして党の政調会が引っ張って政策を決めていく。そう決まっていたのだが、実際は政調会をなくされてしまった。だから、私は整合性も考慮して、ポリシー・ユニットということを考えました。国家戦略局で予算を考えようなんて簡単にできるわけがないんです」
「ポリシー・ユニット」というのは、
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