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国家戦略局が沈み、小沢一郎幹事長が浮かんだ

(7)予算か外交か、はたまた二重権力か。国家戦略局、合成の誤謬に沈む

佐藤章 ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

拡大記者会見する小沢民主党代表と菅代表代行、鳩山幹事長=2006年4月8日、東京・永田町の民主党本部
  民主党が政権を取る3年余り前の2006年4月7日、小沢一郎が同党元代表だった菅直人を代表選で破り、新代表に就いた。小沢は選挙後、菅を代表代行に指名し、幹事長だった鳩山由紀夫とともに民主党の「トロイカ体制」を形成した。揃ってよく写真に収まり、民主党のテレビCMでも「共演」したトロイカは古い自民党政治を打ち破る清新さを国民に感じさせた。

 実際、この清新さを裏付ける「志」は三人に共通していた。三人の著書や対談記録などを読み込み、それぞれにロングインタビューした経験を持つ私は、そう考えている。しかし、その後トロイカは崩れて「志」は空回りし、清新さに対する国民の期待は萎えていった。

菅の毀誉褒貶

 学生時代から現実的な政治改革を志していた菅直人は、イデオロギーに囚われない学生運動に携わっていた。1970年に東工大を卒業、72年には市川房枝や青木茂らを招いて土地問題の討論集会を開いている。その後、市川らが代表幹事を務める「理想選挙推進市民の会」から誘われて選挙運動を手伝った。74年には、政界からの引退宣言をしていた市川を担いで参院選に立候補させ、菅自身は選挙事務長として選挙運動を取り仕切り、市川を当選させた。

 1980年代後半、私自身、大蔵省(財務省)記者クラブに所属していたため、国会近くにある国会記者会館で審議記録をメモに取る仕事の手伝いをしていたが、衆議院議員3期目の菅が委員会で土地問題を詳細に論議していたことを記憶している。「地道によく勉強している。人気先行の人ではないな」という印象を抱いた。

 菅が国民的な政治家として広く認識されるようになったのは、1996年1月26日、自社さ政権、橋本龍太郎内閣の厚生大臣として薬害エイズ事件に取り組み、それまで存在を否定されていた厚生省内の同省エイズ研究班ファイルを発見した時からだろう。事件を省内の処理のみに終わらせず国民の前に引き出した。同2月9日、被害に遭った原告団に率直に謝罪した管の姿は、国民に開かれた政治の可能性を感じさせた。それまでの自民党政治ではほとんど見られなかった姿だった。

 2011年、未曾有の大震災が東日本を襲った3.11の時、首相の菅直人が記者会見で見せた落ち着きと、福島第一原子力発電所が最大の危機を迎えた3月15日未明に「撤退」を強く示唆した東京電力に果敢に乗り込み、「撤退はありえない」と東電幹部を面前で叱咤したことは記憶すべきことだろう。

 福島第一原発事故をめぐる菅の対応は毀誉褒貶に満ちている。しかし、チェルノブイリ級の過酷事故に遭遇した政権は菅の民主党内閣しか存在しない。また、平時の後講釈ならいくらでもできるが、国民全員の生活がかかったような衝撃的な大事故を前にして、菅は逃げることなく、悪戦苦闘しながら粘り強く対応を続けたことは事実だ。SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測システム)対応の拙さなど批判すべき点もあるが、私は率直に評価すべきだと思う。

 原発事故への対応もさることながら政治家としての菅自身についても毀誉褒貶がある。もちろん、どの世界でもハードワークを続ける人間には毀誉褒貶、敵と味方がつきまとうものだが、菅も例外ではない。首相になる前、菅と付き合いの長い法政大学教授の山口二郎は、政治家としての菅について、「いい意味で上昇志向が強い。これは政治家としては悪い資質ではない」という評価をしていた。山口に改めて確認したが、この評価は現在も変わっていない。

 しかし、この「上昇志向」は一般的にはしばしば裏目に出る。

 1974年の参院選で市川房枝を当選させた後、76年12月の衆院選に30歳で初めて立候補したが、「上昇志向」のなせる業か誤解が幾重にも絡んだものか、落選したうえに、市川との間に後味の悪い関係を残した。

「菅氏は昨年(1976年)12月5日の衆議院選挙の際、東京都第七区から無所属候補として立候補した。この時は立候補を内定してから私に応援を求めて来た」

 市川房枝は毎年1回発行していた「私の国会報告」1977年版で、菅の初立候補の事情についてこう記している。

「ところが選挙が始まると、私の名をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要したらしく、私が主張し、実践してきた理想選挙と大分異っていた。(略)彼の大成のために惜しむ次第である」(以上『復刻私の国会報告』)

 もちろん、菅はその後民主党を率いて小沢や鳩山らと政権交代を成し遂げ、大成した。しかし、政権交代直後、国家予算を国民・政治の側に取り戻す大役を担った国家戦略局担当大臣となったにもかかわらず、その大役を果たしきれなかった。国家戦略局はその後、設置法案である政治主導確立法案が成立せず、実質的にはその姿を見せることがなかった。

 国家戦略局はなぜここで失敗してしまったのだろうか。

 私には、民主党が政権を取る11年前の金融国会の時、党代表だった菅が、大蔵省(財務省)改革を嚆矢に政と官の大改革構想を練り上げるべきだという私の提案を一蹴した言葉が思い出される。しかし、もちろんそのような単純な問題だけではない。

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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