野球人、アフリカをゆく(1)荷物の中から、あきらめて置いてきたはずのものが……
2019年04月20日
父とのキャッチボールが、野球を始めたきっかけだった。
普段はしかめっ面をして息子に厳しい父が、浴衣姿でキャッチャーミットを持って座り、さあ、こいっ!と構える。キャッチボールの時だけに見せる柔和な笑顔。子供の頃はこの時間が宝物に思えた。
10歳の時、小学校の野球チームに入り、毎日夢中になって白球を追う日々が始まった。以来、中学、高校、大学と野球部に入り、野球漬けの日々を送った。社会人になってすぐ、父を病気で亡くしたことがきっかけで、今、やりたいことをやろうと、真剣に草野球にのめり込んだ。
社会人5年目の春、JICAに転職した。初めての海外勤務が、西アフリカのガーナ。ここで思いがけず野球チームと出会い、オリンピックに挑戦するナショナルチームの監督となった。これをきっかけに、仕事の傍ら「NPO法人アフリカ野球友の会」を立ち上げ、アフリカの国々と野球を通じた交流を始めた。2度目の海外勤務となったタンザニア在勤時代にも、野球の魅力を伝える活動に励んだ。
そして今、私は南スーダンにいる。
2011年に独立したばかりのこの国については、内戦とPKO、難民、といったネガティブワードが思い浮かぶ。最近発表された2018年度世界幸福度ランキングでは、堂々の世界ワースト第1位だ。
さすがにこの国では、まさか野球なんてできないだろう。
赴任した時は、そう覚悟した。
しかし、そのまさかが起ころうとしている。
南スーダンの実情はなかなか日本には伝わらない。私は、この国の等身大の姿を、いち野球人の視点でドキュメンタリーのように伝えていきたい。
野球はアフリカに何をもたらしているのか。どんな意義があるのか。
足掛け24年に及ぶアフリカとの野球を通じた交流、協力の経験を交えながら、論じていきたい。
2018年8月。晴れた湘南の海辺にて。
「でさ、友ちゃんは、いったい何をやらかしてしまったわけ?」
できもしないボディボードを抱えて海辺ではしゃいでいた井下良昭が、人一倍の人懐っこさ満開の笑顔を浮かべ、仲間から離れて一人、砂浜に上がってきた。
53歳のおっさんのくせに、上下とも鮮やかな青い模様の水着姿は、若作りに成功しているようで、実年齢よりもずっと若く見える。
周囲に聞かれまいと気を使ってか、急にひそひそ声で話しかけてきた井下の神妙な顔に、思わず「ぷっ」と吹いた。
「何を、って、別に何もやらかしてないよ」
こちらも初めてボディボードを持たされて、湘南の海岸に連れ出されたものの、一緒にいる小学校時代の友人たちに、何か指導されるわけでもない。どうしたものかと浜辺で途方に暮れていた時に、不意打ちで質問をくらい、思わず苦笑いで返す。
「なんだよ、いきなり人聞きの悪いことを」
「だってさ、赴任先、アフリカの南スーダンなんでしょ? 友ちゃん、それ、左遷ってやつだろ? 海外に疎い俺でさえニュースくらいは聞いたことがあるよ。アフリカの中でもすごく危ないところだろ」
昔から友だち思いの井下は、私の肩を抱いて、「まあ、前を向いてな。友ちゃん、そのうち、きっといいことある」と確信に満ちた表情で、海を見ながらささやいた。
確かに、そう思われるのも無理ないな。
親友の心配顔と慰めの言葉に、妙に納得しながら、3度目のアフリカ勤務の打診、すなわち南スーダン行き、をもらった4カ月ほど前の日のことを思い出した。
あの日の朝一番、職場の上司から赴任先の打診を受けた私は、オフィスの自分の机に戻るなり、ネットに「南スーダン」を打ち込んだ。待つこと数秒。アップされた画面を見て、思わずキーボード上の指が止まった。
「南スーダン おぞましい内戦の実体 国連施設も襲撃される」
「15人の兵士が女性を輪姦…日本人だけが知らない南スーダンの惨状」
「南スーダンを逃れる難民が150万人に」
「拉致された国連などの関係者ら、無事解放 南スーダン」
出るわ、出るわ。文字どおり、ネガティブ記事のオンパレードである。楽しそうな記事は、一個もヒットしない。
こんなところで、いったいどんな仕事ができるというのか……。
大学卒業後、民間企業勤務を経て、転職した先が、今の職場であるJICAだった。日本名、国際協力機構は、いわゆる開発途上国の支援を行う機関だ。勤務歴はもう27年になる。
これまで2回の海外勤務経験は、いずれもアフリカの国だった。
こうしてアフリカで現場経験を積むにつれ、皮肉なことに、次第に行きたい国が思い浮かばなくなっていた。職場では毎年、次の異動先の希望をヒアリングされる。自分にはとりたてて専門分野もないので、この国で、この分野のことをやりたい、というものがない。考え込んだ揚げ句、最終的に記入した国名は、ウガンダ、ケニア、ガーナだった。
下心を隠さずに言えば、いずれもアフリカでは数少ない、野球のある国ばかりだ。ある意味、それが私の専門分野であった。
アフリカ大陸に初めて足を踏み入れたのは1996年。ガーナだった。それ以来、タンザニア勤務時代も含め、仕事やプライベートで、アフリカのいくつもの国々を訪れた。だから、アフリカなら、なんとなくどの地域のその国はこんな感じ、と想像がついてしまう。
そんな自分に、赴任先として打診されたのは南スーダン。
正直、意表を突かれた。
南スーダンについて、簡単に説明する。
2011 年にスーダン共和国から独立してできた国。ただ、独立した後も、大統領派と前副大統領派が対立。権力闘争が激化した結果、2013年と2016年の二度、大規模な衝突が起きている。
この衝突を機に、JICA事務所の邦人スタッフは全員国外退避した。2年たった今なお、所員は退避したままのはずだったので、自分の中では、赴任する対象の国としてまったく意識の外にあった。
ネット情報は当てにならないことが多い。とはいえ、南スーダンがとても落ち着いた状況のようには思えない。
いったい、どんなところなのか。独立のため長年、闘争に明け暮れた国。独立を勝ち取ったはいいが、今度は国内で権力闘争が日常化してしている国に、どんな人たちがいるのか。
好奇心と挑戦心が、自分の中でムクムクと湧き、上司の部屋にとって返すと、「南スーダン赴任、お受けしようと思います」と言った。
すると、「いやいや、ちょっと待って。南スーダンは危険地なので、単身赴任が条件になるし、勤務環境や生活環境が非常に厳しいので、これは人事命令ではなく、打診なんだよ。断ることができるので、時間かけて、よく考えてから回答して」と上司。
足掛け24年に渡るアフリカ経験がある自分にとって、これまで見たことないアフリカ、想像できないアフリカがそこにある。考えれば考えるほど、行ってみたくなる。でも、確かに、いとも簡単に回答しては、人事部としてもありがたみがなかろう――。
などなど、姑息(こそく)な考えが思い浮かび、人事から回答は1週間以内にと言われたにもかかわらず、さらに3日伸ばしてもらってから、「お受けします」と正式に回答した。
すると、「ほんとですか!よかった!ありがとうございます!お願いします!」と人事の担当。人員配置に相当、苦労されている様子。ならば、よし、人事にひとつ貸し。いつか返してもらおうと胸算用。ちなみに、こうした老獪(ろうかい)さが、アフリカで仕事をこなしていくのに必要な能力の一つだと思っている。
その日は、小学校時代の友だちが、湘南に自宅のある友人の家に集ってバーベキューをしようと企画した日だった。呼びかけに応じて参加した私だが、心中に秘めた目的はバーベキューではなかった。
友人の家に着くなり、持ってきたカバンから、ごそごそとグローブを二つ取り出し、一つをポンと井下(冒頭に出てきました)に投げる。自分を野球人生に導いてくれた、竹馬の友との小学校時代以来のキャッチボールこそ、個人的には、この日の最大の目的だった。
「いちょた、キャッチボールやろう」
いちょたは、井下の昔からのニックネーム。そして井下こそが、父親とのキャッチボールしかしたことがなかった10歳当時の自分を、熱心に野球チームに誘ってくれた恩人なのだ。
湘南の海岸から少し内陸に入った街中。その庭先にあるアスファルトの道路で、ぱしっ!と捕球音を立てながら、白球が緩やかに二人の間を行き来し始めた。
思わずこぼれる笑み。それは懐かしさゆえか、単純に楽しいからなのか。
「友ちゃん、ボールの回転、いいねえ」
「いちょたこそ、投げ方変わらねえなあ」
たわいもない会話をしながら、心躍るキャッチボール。
さすがに今度の赴任先、南スーダンでは、野球ができないだろうと思うと、井下との40年ぶりのキャッチボールが、一つの大きな区切りのようにも思えていた。
常に野球とともにあった、我が人生。ついに野球は封印か……
そう思うと、一球、一球が、愛おしくてたまらない。
時間よ止まれ。ずっとキャッチボールが続けばいいのに。
そんな子どものようなことを考えていた日から3週間後の2018年8月末。私は、成田空港からエチオピアのアジスアベバ経由で南スーダンの首都ジュバへ(アジスアベバから乗り継いだ飛行機が、国際線にもかかわらず、50人乗りくらいのプロペラ機なのには驚いた)。
内陸国、南スーダンに海はない。だが、世界一の大河、ナイル川が国を縦断している。下降し始めた飛行機の窓から、サバンナの中に蛇行するナイル川の姿を見つけたとき、少しアドレナリンが出た。
はるばる来たぜ、南スーダン!
気温38度の灼熱(しゃくねつ)の大地に降り立つやいなや、吹き出した汗をハンカチで拭う。トランジットで紛失するんじゃないかと心配だった預け入れ荷物たちも、ちゃんと届いたようだ。
事務所のスタッフが空港まで迎えに来てくれて、スーツケースと段ボール3箱にもなる赴任荷物をすべて無事通関させてくれた。駐車場に停めておいたトヨタランドクルーザーに荷物をすべて乗せ、空港からはさほど遠くない宿舎に移動した。
気を利かせて部屋のクーラーをあらかじめつけてくれているのはありがたかった。荷物の持ち運びで、全身の毛穴から吹き出た汗は、おかげで部屋に入ってすぐに乾いた。
時計をみれば、夕食までまだ時間がある。さっそく荷解きをすることにした。
スーツケースを開け、段ボール箱を次々にカッターで開封していく。
そして、最後の一番大きな段ボール箱に手をかけて、やめた。
その段ボール箱に入っているものは、もしかしたら使わないかもしれないもの。24個のグローブ、3本のバット、1ダースの軟球、そしてキャッチャーマスク。
出発前は野球封印だと言っておきながら、なんでそんなにいっぱい持ってきているのか。そう突っ込まれても仕方がない量だ。
南スーダンは、これまでの赴任地、ガーナ、タンザニアとは、社会情勢、勤務・生活環境がまったく違う。世界で最も脆弱(ぜいじゃく)な国で、国内外に難民が大量に発生している南スーダンに、野球道具を使う機会なんてないだろう。
頭ではそう思いながら、それでも、万が一、野球をやりたい子たちと出会う機会があったらどうする? それから道具を日本で集めて持って来るのでは、時間がかかり過ぎる。そんな貴重な機会があれば、潰したくない。なにせ、未来が予想しずらい国なのだ。
だったらダメもと。当てがなくても、野球道具は最初から集めて持っていこう。
2チーム分のグローブ。対象がどんな年代でも使えるように、バットが大、中、小の3サイズ。もし試合をやるなら必要なキャッチャーマスクをひとつ。ボールは耐久性があってケガの少ない軟球。気がつけば、それを箱に詰め込んでいた。
そう、私は、往生際が悪い性格なのだ。
とはいえ、野球をやりたい子たちと出会う保障はどこにもない。野球道具の出番がなければ、その時は宿舎の従業員の方々や在留邦人と休日などに敷地内でキャッチボールでもできればいい、くらいに思っていた。
しかし、その2週間後。予想もしなかった、筋書きなきドラマが始まることになる。(続く)
※次回は5月4日に「公開」予定です。
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