藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【14】ナショナリズム 日本とは何か/沖縄と「祖国」④
昨年夏、知事在職中に67歳で亡くなった翁長は、死の間際まで「イデオロギーよりアイデンティティー」と訴え、沖縄の保革の対立を乗り越えようとした。ただ、そのために選んだ道は、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古沖への県内移設を進める安倍晋三政権との対峙(たいじ)だった。
実際、2014年に知事となってからの翁長は、政権に容赦なかった。
「(安倍首相が)日本を取り戻すという中に沖縄は入っているんですか」
「政府は沖縄県民を日本国民として見ていない」
かつて「沖縄の保守」として自民党県連幹事長の職にあった頃にみられた政府への遠慮は、微塵もなかった。
本土に生まれ、短い間ながら沖縄で取材をした記者として、私は翁長のそうした言葉をかみしめる。そこにあるのは、明治維新以来、近代国家としてひとまとまりの存在であろうとしてきたはずの日本とその国民が、戦後日本に生まれた日米安保体制という「国体」の矛盾を沖縄に集中させていることへの無作為、無関心に対する、痛烈な批判である。
【藤田記者の翁長知事急逝に関する記事(withnews)はこちら】
一体ここは日本なのか――。
そんな言葉を、かつて「沖縄の保守」だった知事が吐露するようになってしまった今、それでも「沖縄の保守」にとどまる側の声に耳を傾けたいと思った。ふと頭に浮かんだのが、知事の翁長と沖縄の将来をめぐり県議会で激しく議論した、ある県議の顔だった。
名護市区選出の県議、自民党の末松文信さん(71)。名護市役所に入り副市長までつとめあげた。約20年前、市がいったん普天間飛行場の辺野古沖移設を受け入れた判断に深く関わり、その後も移設問題に揺れる地元で「沖縄の保守」を貫いてきた。
県議会では、翁長に「国には国の責務があるが、県も責務を負うべきだ」と詰めより、安倍政権と協力して「沖縄の将来像を描く」よう求め続けた。
末松さんはどのようにして「沖縄の保守」になったのか。9年前、朝日新聞の那覇支局員として知り合った頃から、ずっと聞きたかった。だが、本土の米軍基地と縁遠い場所で暮らす身にすれば、軽々しく踏み込めないテーマに思え、ためらっていた。
普天間移設問題で県民投票があった2月下旬の週末、思い切って名護の事務所を訪ねてみた。
本土はまだ寒かったが、プロ野球のキャンプも開催中だった名護は初夏のような日差しだった。那覇空港でレンタカーを借り、末松さんを市街の事務所に訪ねると、にこやかに迎えられ、冷えたさんぴん茶をすすめてくれた。
壁には安倍晋三首相や小泉進次郎衆院議員のポスター。末松さんは、敗戦から間もない1948年、沖縄本島より少し北の伊是名島での生まれから話を始めた。
「島には高校もないし、農家を継ぐ長男以外はメシが食えないということで、那覇の工業高校に通いました。卒業して名護の設計事務所に入ったのが復帰運動が始まったころ。私も沖縄を返せとかテーマソングを歌いながら、本島北端の辺戸岬まで歩いたんですよ」
日本は冷戦下の1952年4月、米国などとの講和条約が発効し主権を回復する。しかし、沖縄はその日本から切り離されていた。近代国家で「国民」を育てるのに欠かせない教育は、米軍統治下の沖縄ではそもそもどうだったのか。末松さんは「英語だったの? とよく聞かれるけど、日本と変わらなかったですよ」と笑ったが、大事なのでおさえておきたい。
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