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「神の国」日本と「無宗教」の日本

「八百万」の神と99.9%「無宗教人」のクラス

徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

*この記事は筆者が日本語と韓国語の2カ国語で執筆しました。韓国語版(한국어판)でもご覧ください。

筆者が在職する明治学院大学。日本にはキリスト教系私立大学が多いが、その教職員や学生の大部分は「無宗教者」である=筆者提供

あなたは宗教を持っているか、宗教的に興味があるか

 筆者は大学で主として宗教史関連の授業科目を担当している。そして毎年、初回の授業で100人前後のクラスに質問をする。

「このなかに特定の宗教を信仰している人がいますか?…それじゃ、宗教に関心がある人がいますか?…」

 戻ってくる答えは、過去数年間変わらない。100人のクラスで「宗教あり」と答えるのはせいぜいひとり、あるいはゼロである。そして「宗教に関心あり」との返答が100人中7~8人もあれば、むしろ今年は多いなと感じる。

 もう一度書くが、筆者は宗教の歴史を、より具体的には「キリスト教」を教えている。にもかかわらずこの数字である。筆者は非常に不幸な大学教授であるといってよい。

 信仰する宗教をほとんどもたず、それに対する関心さえない学生に、まず宗教への関心を呼び起こし、それから宗教にまつわる歴史などを教えなければならないわけだ。壁に向かって授業しているといおうか、空しく虚ろな独白を並べたてる講義をしているといおうか、ともかく職業として厳しい環境にいることはまちがいない。

 筆者のクラスだけではない。日本の大多数の若い世代、とくにエリートグループに属する青年たちに、信仰する宗教があるか聞くと、ほとんどが宗教はないと答える。つまり「無宗教」である。

 彼らはまた、宗教には特別な関心もないという。これまでもそうであったし、これからもそうであろうと、当たり前の顔をして答える。

 はたして、このような日本の圧倒的な「無宗教」現象は、歴史的にみても肯われることなのだろうか。つまり、日本は本来的に「無宗教」が主流である国なのだろうか、ということを問うてみる。

「神の国」の日本

 答えはおそらく、ちがう。

 日本には伝統的に、宗教学者らがいうように、宗教的、文化史的にみたときたくさんの神があり、それらの神々に仕える文化がいまなお息づいている。

 周知のように、日本にいる神は八百万と数えられる。八百万の神とは、数え切れないほど神がいるということだけでなく、この世のどんな形をした、どんなものもすべて神になることができるという、最高レベルの多神教社会であることを意味している。そんな日本の宗教を基底にもつ「神道」とは、世界的にみても代表的な多神教の宗教である。

 よって根本的に日本の歴史は極めて宗教的であり、宗教のもとで各地域の生活文化は形成されてきたのだといえる。いまなおあちらこちらに残されている宗教的な儀式やお祭りは、ほぼすべてその痕跡である。

 また元をただせば外来の宗教である「仏教」も、日本をベースにおおきな花を咲かせた。それは長い歴史を誇り、独特な個性と規模をもっていて、やはり日本の仏教文化も世界的なものといえるだろう。

 しかしながら、日本が「神の国」であるというのは、歴史的な側面だけではない。

 継続的に新宗教が生産され、宗教の社会的氾濫とでもいうべき現状も、日本の宗教文化的特性をあらわしている。すなわち日本は極めて宗教的に敏感な社会なのである。「神社」は数え切れないほど多くの神々に仕え、そしていまなお、新たな神々を生産しつづけている。言い過ぎかもしれないが、ひょっとすると将来、漫画の「キャラクター」や「ロボット」が神になるようなことがあるかもしれない。

 はたまた、宗教によるつらい事件もあった。1995年3月20日、東京の真ん中でおこされた「オウム真理教」のテロ暴力、宗教が社会に衝撃を与え、世界を驚かせた事件である。

 なかなか理解しがたいことではあるが、麻原彰晃と呼ばれる低級な宗教カリスマが日本の一部エリート知識人とともに、一般の人々を殺戮する、それが宗教的にみたときの日本の社会のひとつの姿でもある。

 また、韓国ではごくマイナーな存在であった「統一教会」が、日本の普通の人々を多数幻惑させ、その犠牲に基づいて一定の勢力を形成した。現在もなお日本社会は、新たな宗教的創案と生産の力に満ちた社会である。今後も、新興宗教がたくさん生み出され、活発に活動する可能性が高い社会であるといえる。

「宗教の国」から「無宗教の国」に

 日本という近代国家は、「近代天皇制イデオロギー」を創出した。それは強力な中央集権的国民統合のイデオロギーとして、最高の有効性をもっていた。前にもこのコラムに書いたが、それは「超宗教」の次元に置かれて、すべての宗教的権威を超越した。

 つまり神道から分離された「国家神道」は、「非宗教」と規定され、それによって「宗教のうえにある宗教」として国民崇敬の対象とされたわけである。

 一方で近代日本は、急速に世俗的な現代文明を受け入れる国家となった。他のアジア諸国に先駆けてすべての前近代的思考を超えて、科学的、合理的理性を中心とする現代文明に焦点を当てた。

 このとき宗教は「非合理」的なものとして、その焦点の外におかれた。そしてその傾向は知的訓練のレベルに比例して顕著であった。

 つまり知識人的エリートになればなるほど宗教は貶められて、理性と科学が尊重された。宗教は伝統文化の品揃えのひとつとして陳列ケースに並べられたのである。

いまだ国家神道の特質をもつ靖国神社=筆者提供

「無宗教」と呼ぶ一つの宗教

 人間は宗教的存在である。宗教は人間が意志をもって選択するものではなく、人間に必須なものである。

 だから、自らを「無宗教」であるといい、宗教には興味がないというときの宗教の概念は、じつはすこぶる狭い。「キリスト教」、「仏教」、「イスラム教」、「儒教」、「神道」、「土俗宗教」…それらの「宗教」のように、具体的で形のある宗教集団に所属しているかどうか、またそのような宗教に関心があるかどうか、と問われての答えにすぎない。もうすこし広いカテゴリでみると、人々が「無宗教」というときのまさにその「無宗教」こそが彼らの宗教であるとすることができる。

 さらに小さな区分をいえば、「無宗教」にも「有神論的無宗教」と「無神論的無宗教」があり、それらはさらに細分化することもできるのだが、いまそれはさておいて、そもそも人間は宗教的存在であるが、考えてみればそれは単に信仰や宗教生活のみに基づかなくてもよいはずである。一個の人間が生きていく日常の価値観はもとより、最終的価値観つまり終末期の生活の選択や死の観念、あるいは社会についての理解と行動規範、ときによっては自分が最も大切に思うこと等をすべて宗教的観念のカテゴリーに含み込むこともできる。

 さらにはもっと現実的な側面もある。

 たしかに日本は現在、世界的にみて「無宗教のアイデンティティ」を持つ人が多数を占め、とくに若い世代のほとんどがそのような自己認識をもつ国である。

 しかし、国境を一歩出た瞬間、隣国・韓国は半数以上の人口が宗教をもつと回答する国であり、信仰心や宗教的価値によって自らの生活を決定する「宗教の究極性指数」が高いとされる国である。中国の場合には、さまざまの要因によって大きな人口が急激に宗教の側にシフトしている。

 あるいは日本と文化的、地理的に深く関連してるアジア一帯では、「無宗教」という概念自体が存在しないかのごとく、人口のほぼ全体が宗教のなかにあるといってよい。仏教とイスラム教が二大山脈を形成する東南アジアと中央アジア、ヒンズー教が全体を主導する巨大国家インドがあり、イスラム教に貫かれた西アジアや中東にも接している。

 日本の若い世代と同様の宗教的認識がうかがわれる欧米諸国の場合を考えてみても、彼らの多数は伝統的なキリスト教のアイデンティティを基盤としていて、やはり日本のケースとは違っている。

 つまり日本の多数派「無宗教」を一つの宗教と前提しなければ、日本人と世界の人々とのコミュニケーションに深刻な障壁が生まれる可能性すら危惧されるのである。やはり筆者としては、日本の「無宗教的現状」を一つのユニークな「宗教的現状」に想定してみる必要があるといいたい。

「政治」は「宗教」なしには語れない

 世界の歴史を「政治」を通してみることも、「経済」を通してみることも、「文化」を通してみることも可能なように、「宗教」によってみることもできる。もちろん、そのほかの領域もあり得るだろう。

 それらの窓から覗き込む「目」は、歴史に対するそれぞれの「史観」を形成する。「史観」とは単純な物理的な視点だけにとどまらない。ときにはそのときどきの国家や人々が支持する「イデオロギー」であったりもする 。

 筆者は、ときに世界と政治を宗教の観点から考察し、説明しようとする。だが、ある人はいう。宗教を通してみることができるものなんてあるのか、とくに宗教的価値がほとんど地に落ちた現代で、誰が宗教などというようなものに関心があるのだ、と。日本ではそう考える人が多い。はなから宗教に関心をもたない「無宗教者」、いや「無神論者」である。

 だが、その「無宗教」と「無神論」をひとつの「宗教的信念」としてみることが必要なのである。

 このとき「宗教的信念」とは、個人に限定された領域で福を祈り、倫理を示し、死の後の不確実性を埋め合わせてくれる分野、すなわち「生命保険」のような概念だけにとどまらない。それは「政治」の「内面」になり、「経済」の「動力」にもなれば、目にはみえない「文化」の「偶像」にもなる。あるいはまた「極限戦争」の「背景」にもなるし、悲劇的な「人類破局」の原因にもなる。「否定的予言」の根拠となったり、輝く「未来」のビジョン(vision)にもなるのだ。

 もう一度立ち止まってよく考えてみよう。「政治」を「政治」でもって説明することは当たり前のことだろうか。むしろ「宗教的信念」によって説明する方が明快なのではないだろうか。アラブの至る所でおこなわれ、いまも続く「戦争」と花びらのような青年たちの「自爆」、天皇陛下の恩恵を叫びながら、華奢なからだを雪の欠片のように海洋に散らした「神風特攻隊」、宗教的信念が増加させた「怒り」によって肉親、兄弟が戦った「韓国朝鮮戦争」、政治的カリスマとは到底言い難い歴史上の「独裁者」と、それに立ち向かった「群衆の喊声」や「反逆」を、いったい「政治」だけでどうして説明することができるというのか。

 結局のところ、それらは「宗教」、あるいは「類似宗教」を通して理解するほかないものである。歴史とはそれらが点綴されたものにほかならない 。

 一般に、現代の政治では、豊かな「食卓」を与えることができる指導者を大衆が支持するという。だから「経済的関数」と「政治的リーダーシップ」こそがもっとも適切な相関関係にあるとみなす。なるほど一理ある話だ。

 しかし、元来「民衆」の「ご飯」は「宗教」であった。ときとして「飢えても満腹である幻覚」を与えるのが「宗教」である。じつのところ「政治」は「宗教的パラダイム(paradigm)」に頼らずにはなにもできない。

 もちろんここで筆者がいう「宗教」は大きく、広い概念の「宗教」である。個々人が「宗教」をもっているか、いないかには関係がない。「宗教」でもって世界の歴史を読んでみることをお勧めしたい。世界は思ったよりもはっきりとみえてくるだろう。「宗教」はそれほど重要な「動力」なのである。

おおいなる宗教国・日本

日本の新宗教「幸福の科学」=「幸福の科学」HPより
 個人やコミュニティの文化における宗教的感受性や性向を形態的に区分してみる。

 個人や共同体が現在を至高の瞬間として認識し、その最良の現在を維持し、持続したいと思うグループ、それをかりにMタイプとする。

 そうではなくて、いま現在は激しい痛みのときで、言葉もない瞬間であって、いまはもう過ぎ去ったあの日、あの時こそが最高だったと考えているグループもある。過去の栄光を叫び、あの時、その時代に戻ることを念願しているグループをPタイプと呼ぶ。

 はたまた、いまの痛みは言葉にすることもできないし、過ぎ去った時さえ極限的苦痛の時間であって、唯一の希望はいつか新しい世界がやって来て、新たに天地が開闢する革命の時が来るのを待っているグループもある。それをFタイプと呼んでみる。

 はたしてこれらのうち、私たち個々人は、そして私たちのコミュニティはどれに属しているのだろうか。

 宗教的感受性についていえば、Fタイプがもっと強いタイプといえる。彼らは心底「メシア」を待っており、新しい世界の新しいカリスマを探し求め、あるいは「天地開闢」を夢見ている。

 韓国の宗教文化の特徴は、歴史的にみてもFタイプが多く、強い。しかし日本も負けてはいない。新宗教がかくも盛んな日本にも、またFタイプの強い特徴がうかがえるのだ。

 筆者は日本もおおいなる宗教国であるといいたい。