「神の国」日本と「無宗教」の日本
「八百万」の神と99.9%「無宗教人」のクラス
徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長
「宗教の国」から「無宗教の国」に
日本という近代国家は、「近代天皇制イデオロギー」を創出した。それは強力な中央集権的国民統合のイデオロギーとして、最高の有効性をもっていた。前にもこのコラムに書いたが、それは「超宗教」の次元に置かれて、すべての宗教的権威を超越した。
つまり神道から分離された「国家神道」は、「非宗教」と規定され、それによって「宗教のうえにある宗教」として国民崇敬の対象とされたわけである。
一方で近代日本は、急速に世俗的な現代文明を受け入れる国家となった。他のアジア諸国に先駆けてすべての前近代的思考を超えて、科学的、合理的理性を中心とする現代文明に焦点を当てた。
このとき宗教は「非合理」的なものとして、その焦点の外におかれた。そしてその傾向は知的訓練のレベルに比例して顕著であった。
つまり知識人的エリートになればなるほど宗教は貶められて、理性と科学が尊重された。宗教は伝統文化の品揃えのひとつとして陳列ケースに並べられたのである。

いまだ国家神道の特質をもつ靖国神社=筆者提供
「無宗教」と呼ぶ一つの宗教
人間は宗教的存在である。宗教は人間が意志をもって選択するものではなく、人間に必須なものである。
だから、自らを「無宗教」であるといい、宗教には興味がないというときの宗教の概念は、じつはすこぶる狭い。「キリスト教」、「仏教」、「イスラム教」、「儒教」、「神道」、「土俗宗教」…それらの「宗教」のように、具体的で形のある宗教集団に所属しているかどうか、またそのような宗教に関心があるかどうか、と問われての答えにすぎない。もうすこし広いカテゴリでみると、人々が「無宗教」というときのまさにその「無宗教」こそが彼らの宗教であるとすることができる。
さらに小さな区分をいえば、「無宗教」にも「有神論的無宗教」と「無神論的無宗教」があり、それらはさらに細分化することもできるのだが、いまそれはさておいて、そもそも人間は宗教的存在であるが、考えてみればそれは単に信仰や宗教生活のみに基づかなくてもよいはずである。一個の人間が生きていく日常の価値観はもとより、最終的価値観つまり終末期の生活の選択や死の観念、あるいは社会についての理解と行動規範、ときによっては自分が最も大切に思うこと等をすべて宗教的観念のカテゴリーに含み込むこともできる。
さらにはもっと現実的な側面もある。
たしかに日本は現在、世界的にみて「無宗教のアイデンティティ」を持つ人が多数を占め、とくに若い世代のほとんどがそのような自己認識をもつ国である。
しかし、国境を一歩出た瞬間、隣国・韓国は半数以上の人口が宗教をもつと回答する国であり、信仰心や宗教的価値によって自らの生活を決定する「宗教の究極性指数」が高いとされる国である。中国の場合には、さまざまの要因によって大きな人口が急激に宗教の側にシフトしている。
あるいは日本と文化的、地理的に深く関連してるアジア一帯では、「無宗教」という概念自体が存在しないかのごとく、人口のほぼ全体が宗教のなかにあるといってよい。仏教とイスラム教が二大山脈を形成する東南アジアと中央アジア、ヒンズー教が全体を主導する巨大国家インドがあり、イスラム教に貫かれた西アジアや中東にも接している。
日本の若い世代と同様の宗教的認識がうかがわれる欧米諸国の場合を考えてみても、彼らの多数は伝統的なキリスト教のアイデンティティを基盤としていて、やはり日本のケースとは違っている。
つまり日本の多数派「無宗教」を一つの宗教と前提しなければ、日本人と世界の人々とのコミュニケーションに深刻な障壁が生まれる可能性すら危惧されるのである。やはり筆者としては、日本の「無宗教的現状」を一つのユニークな「宗教的現状」に想定してみる必要があるといいたい。