藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【17】ナショナリズム 日本とは何か/隠岐にみる「島国」②
日本の国民にとって、8月は特別な月だ。
お盆や高校野球といった行事に、故郷を思う。そのさなかに15日の終戦記念日を迎え、かつて国家のために命を落とした人々を弔う。愛郷心を意識しつつ、愛国心とは何かを考える節目が毎年8月に押し寄せては、過ぎ去ってゆく。
そんな愛郷心と愛国心の関係は、明治以降の日本で揺れ続けてきた。人々がそこで生まれ、暮らした土地に根づく愛郷心と、急ごしらえの近代国家で生まれた国民に求められる愛国心は、どうつながるのか。
明治維新の直前に起きた「隠岐騒動」から何かが見えてこないかと、島根県の隠岐諸島を訪ねたのは半年前のことだ。(前回「隠岐にみる『島国』/『皇国の民』の蜂起」参照)。前回に引き続き、「島後」と呼ばれる隠岐の島町で、郷土史に詳しい人々を訪ね歩く。
島民らは1868年3月、天皇の名の下に決起して松江藩の役人を追い出し、80日間の自治を行った。島根半島から北へ67キロの日本海の離島で、本土が幕末維新の動乱にある中、明治政府の先を行くような行動がなぜできたのか。
隠岐騒動から150年になる昨年にできた「150隠岐維新を次世代に伝える会」で、事務局長を務める小室賢治さん(71)に、かつて館長を務めた町の図書館で話を聞いている。
小室さんは言う。「海運が中心の当時、隠岐は離島というより高速道路のインターチェンジのようなもんでした。北前船の風待ちで西郷港は栄えた。人も物も来る。情報も速い」
その「情報の速さ」で、隠岐騒動の中心人物らは、幕末の激しい政局もつかんでいた。決起に先立つ1カ月前に船で本土に渡った際、倒幕を担う長州藩士らと出会い、窮地の徳川家が存続を図ろうと政権を天皇に返したこと(大政奉還)や、それに納得しない長州藩をはじめとする新政府軍が旧幕府軍と戦いを始めたこと(戊辰戦争)を知る。
隠岐からの一行が得た情報は、極めて貴重だった。島民らは重税や外国船への対処で松江藩に不満を募らせていた。その幕藩体制が崩れつつあることを知ったのだ。
一行が島に戻った3月には、本土での動乱に呼応する事件も起きていた。新政府軍の「山陰道鎮撫使」として、後に首相となる公家の西園寺公望が松江城下に入るにあたり、属僚が隠岐の庄屋らに宛てて書簡を送ったのだが、これを松江藩の隠岐役所が途中で開封したのだ。
隠岐騒動の中心人物らはこれをとらえ、「隠岐の庄屋らを無視しただけでなく天皇を侮蔑した」として決起へ動く。幕府の天領だった隠岐を代わりに治めるべく、松江藩から派遣されている郡代を追放すべきか否か。島後で開かれた庄屋大会では、松江藩の報復を案じる声もあったが、激論の末に郡代追放を決議した。
庄屋らが島民らに呼びかけた檄文には、島後出身で孝明、明治両天皇の侍講を務めた中沼了三(1816~96)に学んだ皇国史観に加え、「徳川氏の謀反は明らか」という長州藩からの情報も盛り込まれた。
竹槍などを手に決起に集まったのは、島後の男の3分の1にあたる約3千人。自衛のための訓練の場だった西郷港近くの「調練場」、今の西郷小学校あたりの高台に集まり、郡代屋敷へと向かった。
私は当初、隠岐騒動の背景として、鎌倉時代に後醍醐天皇らが流されるといった歴史に根ざす「勤皇の島」の愛国心を想像した。だが、小室さんと騒動の経緯を振り返って感じたのは、むしろ島民らの愛郷心に根ざすしたたかさだった。
古来、本土と交流してきた隠岐人の所作をしっかりと継いで、幕末維新の動乱期に情報をつかみ、島が生き抜くための決起に生かし切っていた。
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