藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)
1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)、日独で取材した『ナショナリズムを陶冶する』(朝日新聞出版)
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【17】ナショナリズム 日本とは何か/隠岐にみる「島国」②
島後の島民らが天皇の名の下に決起した頃、天皇が「臣民」を治めるという近代国家・日本のかたちは、愛国心の対象としては、まだ像を結んでいなかった。できたばかりの新政府は揺れた。
島民らは松江藩の郡代を追放し自治を始めたが、新政府は松江藩に隠岐を引き続き治めるよう指示した。松江藩の反撃により島民14人が亡くなる一方で、郡代は混乱の責任を取らされ切腹。さらに、天皇を中心とする新政府が神道を保護したため、島後ではかつて郡代追放に反対した寺院への反感が再燃し、激しい廃仏毀釈が起きた。
島後において、隠岐騒動が近代国家・日本への萌芽として位置づけられるのは、本土で幕末維新の動乱をつくりだしたエネルギーが富国強兵へと収斂(しゅうれん)されていく頃だ。
隠岐の島町の運動公園がある高台へ行くと、「報圀(報国)紀念碑」がある。裏には「明治元年より同二十七、八年の役にいたる忠死者のために隠岐国有志の者これ建つる 明治二十九年五月十日」と刻まれている。
明治27~28年、つまり1894~95年の日清戦争の戦死者へと連なる形で、明治元年の隠岐騒動で命を落とした島民らも「報国」の士として祀(まつ)られた。5月10日はその命日だ。町の教育委員会によると、この碑はもともと隠岐騒動の際に島民らが結集した高台の調練場にあったという。
だが、今から半世紀前の1968年、隠岐騒動から100周年を迎えた時には、島では特段のイベントはなかった。島後の人たちにそのわけを聞くと、「歴史的位置づけが一筋縄ではいかない出来事だけに、町の小中学校でまだ教えられていなかった」とか、「ちょうど日本の高度経済成長期で、島でも昔を振り返る雰囲気ではなかった」といった話を聞いた。
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