メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

news letter
RSS

隠岐にみる「島国」/ロシア水兵の墓

【18】ナショナリズム 日本とは何か/隠岐にみる「島国」③

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

「霊界に国境なからん」

 郷土史に詳しい町役場の藤原時造さん(44)の案内で、西郷港に近い高台の墓地を訪れた。そばに広がる西郷小学校のグラウンドあたりは、幕末に調練場と呼ばれた。「隠岐騒動」で決起した島民らが、松江藩から派遣された郡代を追い出すために竹槍を持って集まった場所だ。

 その墓地に風変わりな十字架を象(かたど)る墓石があった。こう刻まれていた。

 ――日本海海戦 露國軍人墓 隠岐國在郷軍人会建之

 1905年5月、日露戦争の日本海海戦があった。流れ着いたロシア水兵らの遺体を、島民らはその墓に葬った。

 両隣に石碑が二つある。

 右にあるのは地元の老人クラブが69年に建てたもので、荒れていた墓を有志の寄付で修復したとあり、「霊界に国境なからん、乞う安らかに瞑せよ」と結ばれている。

拡大日露戦争で流れ着いたロシア水兵の墓を1969年に地元の老人クラブが修復したことを記す碑=2月2日、島根県隠岐の島町西町。藤田撮影

 左にはロシア語で同じ趣旨が書かれ、さらに、日本が基礎を作り、76年にソ連の協力で整備されたとも記してある。

 南下するロシア、警戒する日本。20世紀初めに双方の陸軍が満州(いまの中国東北部)でぶつかった。日本にとっては、陸軍を本土から支えるために日本海の制海権は不可欠だった。隠岐諸島では、海軍が岬や山に「望楼」を作って監視し、日本海海戦の際には砲声が響いたという。

 近代国家・日本の命運をかけたこの海戦の勝利を知らせる新聞の号外に、東京や大阪の街は沸いた。

拡大日露戦争終結後の1905年10月、海戦の経過を明治天皇に奏上するため東京入りした東郷平八郎海軍大将の凱旋の行列。巨大な凱旋門が造られた=東京・新橋駅周辺。朝日新聞社

 島後ではその頃、流れ着いたロシア水兵のなきがらが供養されていた。十字架の墓石のそばには、さらに溯ること10年ほど前から、隠岐騒動から日清戦争までの死者を祀る「報圀(報国)紀念碑」が建っていた(今は移転)。

 二つの石碑は、島民にとって何の不自然さもなく共存してきた。

 「ロシア水兵の墓の話は、今も町の子どもたちに教えられています」と、藤原さんは話してくれた。島後の小中学校の先生たちが1983年にまとめた「隠岐の人々」という副教材を見ると、「海を越える愛」という項にこう書かれている。

「亡くなってしまえば、もう敵も味方もない。つれて帰ってあげるからね」。身体をもちあげて船に乗せようとしたが、重くて上げることができず、仕方なく、とも綱で引いて港へ帰ってきた。西郷町の天神の浜に、こうしたロシアの水兵の遺体がいく体となく運ばれていた。漁夫たちは自分でお金を出して外国の水兵のために供養をした。町の人々も協力し、大変な努力によって、当時としては問題の多い外国人の、しかも交戦国の水兵の墓を作ったのである。

拡大島根県隠岐の島町の「ふるさと教育」副教材で、ロシア水兵の墓を紹介した部分=藤田撮影
 いま町の小中学校で使われている副教材「ふるさと隠岐」はこのくだりを再掲し、「エピローグ」で再びロシア水兵の墓の話に触れている。

 そこでは、墓を守ってきたおばあさんが遺体を見つけた時の語りが紹介され、「私たちは、この話の中に何を見つけるでしょうか」と子どもたちに問いかけている。

 こんたのおー ここに一人ござらっしゃっわさびしいじゃらー
 さいご(西郷)では、こないだがいな金をかけてりっぱな墓になったちょわな
 こんたもそこへ行かっしゃい 友達が二十人も三十人もござっちょわな

全ジャンルパックなら本の記事が読み放題。


筆者

藤田直央

藤田直央(ふじた・なおたか) 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

1972年生まれ。京都大学法学部卒。朝日新聞で主に政治部に所属。米ハーバード大学客員研究員、那覇総局員、外交・防衛担当キャップなどを経て2019年から現職。著書に北朝鮮問題での『エスカレーション』(岩波書店)

藤田直央の記事

もっと見る