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小沢一郎が構想した予算編成

(8)小沢は裏の国家戦略局長となり、与党・政府一体化の政治システムが現出していた

佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

安倍政権で消えた「政と官」の議論

 歴史の時間に退化ということはあるのだろうか。常識的に考えれば政治制度の歴史は少しずつ進化していくと考えられるが、民主党政権以後の自民党政治のありようを観察する限り退化という事態もありそうである。時代を象徴する固有名詞で言えば、小沢一郎と菅直人の時代から安倍晋三の時代へ、という下降線は思い描いてみる必要がある。

 ある種の深海魚や真っ暗闇の洞窟に棲息する魚などは目が退化して存在しなくなっている。同じように、民主党政権までは議論され考究されてきた政治的論題が、第2次安倍政権になってからはほぼ完全に議論のテーブルに乗らず、その論題自体が忘れ去られてしまったようなことがあるのではないだろうか。

 その通り。第2次安倍政権になって誰もが言わなくなってしまった重要な政治問題がひとつある。このために日本の政治を見る大切な「目」がひとつ退化してしまって、いまや真っ暗闇の洞窟の中をあてもなく泳いでいるだけである。

 その退化した「目」というのは、「政」と「官」の関係を見極め、正しい位置関係に置き直していくという視角だ。

 小沢一郎と菅直人の時代、この「目」は爛々と輝き、日本の政治を語る人間は政治構造改革の視角を大なり小なり携えていた。

 しかし、安倍晋三の時代にはこのような「目」は失われ、人々の口の端に上るのは、政治問題としてははるかに原初的な立憲主義や情実予算、情実人事、あるいは前近代的なヘイト感情に溢れた「嫌韓、嫌中」といったようなことだ。日本政治を語る視角としては何とも情けないほどの退化だ。

arturasker/.shutterstock.com

時代を先取りした『日本改造計画』

 「政」と「官」のありうべき関係を考察し、本格的に世に問うた政治家は小沢一郎が最初だろう。

 1993年5月、小沢は一冊の本を講談社から出版した。日本政治に関する小沢の考えをまとめたこの著作、『日本改造計画』はたちまちベストセラーとなり、最終的には70万部を突破した。現役政治家の著書としてはほとんど最大の売れ行きとなった。

 この著書を出すために、北岡伸一や御厨貴ら当時新進気鋭の政治経済学者ら10人ほどを集め、1、2週間に1回勉強会を開いた。会合は60回ほどにも及び、国内政策や外交、経済政策について小沢との間で議論を詰めていった。

 それぞれの政策については小沢の考えを踏まえた上で気鋭の学者たちが執筆していったが、小沢自身が他に譲らない箇所があった。目次からその大きな項目を挙げると、「首相官邸の機能を強化」「与党と内閣の一体化」「なぜ小選挙区制がいいか」という三つだった。まさに政官関係と、政治改革の中核となった小選挙区制だった。

 小沢はまず第一に首相のリーダーシップを強化すべきことを考え、そのために首相補佐官や内閣審議室の改革を提案する。次に、与党と内閣を一体化させ首相を支えることを考える。省庁ごとに2、3人の政務次官と4~6人の政務審議官ポストをつくり与党議員を割り振る。この時に党の政策担当機関を内閣の下に編成し直し、閣僚を含めて160人ほどの与党議員が政府に入っていく。

 また与党幹事長を閣僚にして、内閣と与党をトップレベルで一体化させる。それぞれの省庁の方針は政治家チームが官僚の助言を受けながら決定していく。また、特定の問題については関係閣僚による閣僚懇談会を設け、実のある議論を進めていく。

 小沢が政治改革のモデルとして考えていたのは、議院内閣制の長い歴史を持つイギリスだった。選挙制度についても、イギリスのような二大政党制に移行しやすい小選挙区制を第一に考え、中選挙区制からの急激な変化を避けるために比例代表制的な要素を加えた小選挙区比例代表並立制の採用を次善の策として考えていた。

 『日本改造計画』から要点を書き出してみると、紆余曲折はありながらも日本の政治制度はほとんど小沢が思い描いていた線をなぞって進歩してきた感がある。

 「英国の議会制度を模範とすべきだという意識はずっと持っています」と小沢は説明した。

 「日本というのは官僚がお上、政府と思われているから、国会議員自身が自分の政府なのにそうは思っていないんだ。だから、予算なんかでも政府と交渉してこれだけ自分たちは取ったというようなことをやっているでしょう。その時の政府というのは官僚のことなんだ。しかも、大臣は官僚の単なる操り人形に過ぎない。本当におかしな話なんだ。与党と内閣とが掛け合い漫才をやっているようなものだ。そんな馬鹿なことはやめるべきで、自分たちの政府なんだから、自分たちで責任を持って決めなければならない。だから政調会が与党にあるなんてこともおかしいんです。基本を言えば日本人の意識改革をしなければいけないんだけど、まずは形から改めていこうということです。選挙制度もそうです。小選挙区制に変えることで意識を転換させていくしかないんです」

 小沢が小選挙区制をはじめとする政治改革を考え始めたのは実に早く、父親の小沢佐重喜がなくなり、初めての選挙に立候補する27歳より以前のころだった。

 実を言えば保守政治家である小沢佐重喜自身も小選挙区制論者で、1962年には自民党の「党近代化のための脱皮」を目指した調査会(三木武夫会長)の副会長として選挙制度改革の調査にあたっている。

 『日本改造計画』が出た1993年5月、当時北海道大学教授だった山口二郎・現法政大学教授が岩波新書から『政治改革』という本を出している。やはりイギリスの議院内閣制に範を取り、「議会の多数派のもとで立法権と行政権の二つの権力が融合するところに議院内閣制の特徴がある。議院内閣制は権力分立よりも権力融合という帰結をもたらすことが重要な教訓である」と考え方を説明している。小沢と同様、与党と内閣の一体化、あるいは立法権と行政権の融合ということだ。奇しくもまったく同じタイミングで同趣旨の政治改革の議論を提示している。

 そして、政治改革の土壌からはもうひとり特筆すべき人物が自らを養っていった。

『大臣』に描かれた菅直人の官僚との闘い

 菅直人は東工大時代、マルクス主義とは距離を置いた学生運動に携わっていたが、大学卒業の前後を通じて市民運動に参加、政治学者の松下圭一・法政大学教授らを招いて勉強会を開いていた。松下は『市民自治の憲法理論』や『シビル・ミニマムの思想』などの著書があるが、イギリスの議院内閣制についても研究を進め、正確な知識を持っていた。

 岩波書店が発行する総合月刊誌『世界』の1997年8月号に「行政権とは何か」と題する鼎談が掲載されている。鼎談者は菅と松下、五十嵐敬喜・法政大学教授の3人だ。

 鼎談の中で、松下は、戦前型の「行政権中心」の三権分立と、文字通り国民主権を眼目にしたイギリス型の三権分立のちがいをわかりやすく説明している。簡単に言えば、戦前型は国会と内閣と裁判所を羊羹のように三つに切り、お互いに干渉し合わないようにさせるという考え方。松下によれば、これは現在の官僚も囚われている「講壇法学」あるいは「官僚法学」だ。

 一方、イギリス型の国民主権の三権分立というのは、国民が選んだ国会が内閣をつくり、この内閣が行政すべてを支配するという形になる。つまり、山口二郎が説明していた「立法権と行政権の融合」、小沢一郎が主張していた「与党と内閣の一体化」だ。松下も、山口や小沢も「官僚法学」に欺されず、本来の議院内閣制をきちんと思考していた。

 松下のこの考え方になじんでいた菅直人は1996年1月、橋本龍太郎内閣の厚生大臣に就任するとほぼ同時に「官僚法学」との闘いを始めざるをえなかった。当時大きな問題となっていた薬害エイズ事件について省内に調査委員会をつくろうとしたが、厚生官僚たちは「前例がない」と言って同意しなかった。その時の言い訳として「知りたいことがあるのなら、大臣には何でも教えますから」ということまで言われた。

 そんなエピソードが菅の著書『大臣』(岩波新書)に書かれている。つまり、大臣はたまたま行政側に入ってきたお飾り的存在、だから特別の行為であなたには教えてあげますよ、という感覚がこの時の厚生官僚のものなのだ。

 薬害エイズ事件の経験を振り返ったこの著書では、大臣として官庁に入った議員はまさに孤独なお飾り的存在でしかなく、力を発揮できない事情が説明されている。

 この事件では、現在の枝野幸男・立憲民主党代表が若手議員として菅の片腕となり厚生省の追及に力のあったことが記されている。枝野のような副大臣や政務次官など政治家チーム10人くらいが大臣の周りに帯同できれば、かなりちがった状況になる。経験に基づいた政治任用をめぐる菅の率直な感想だ。

厚生大臣当時の菅直人氏=1996年10月0日

財務省が握ってきた予算編成権

 2009年9月、民主党政権が成立し、菅は新政権の要、国家戦略局の担当国務相となった。

 では、菅は過去の経験、思考内容を生かすことができただろうか。結論を先に記せば、残念ながらそれはできなかった。なぜだろうか。

 まず考えられることは、国家戦略局の考案者、松井孝治の政権設計スキームと菅のそれが一致しなかったという点だ。イギリス型の与党・内閣一体スキームを考えていた菅にとって、大所の予算編成を一手に握る国家戦略局の考え方は唐突なものに映った可能性がある。

 第二に考えられることは、菅が手足として考えていた党政策調査会がなくなってしまい、国家戦略局に帯同していく議員の調達が難しくなったということだ。

 だが、この二つの可能性は懸命に突破しようと思えば突破できないような問題ではなかったと考えられる。イギリス型の与党・内閣一体スキームでも、特定の問題については関係閣僚だけが議論する閣僚懇談会の制度がある。国家戦略局について、予算と財政問題を担当する重要な閣僚懇談会と読み替え、財務相ら経済関係閣僚と有意な各省副大臣、政務官クラスを集めれば、かなり踏み込んだ議論ができたのではないだろうか。

 この問題について話を聞きに行った時、菅は「国家戦略局で予算を考えようなんて簡単にできるわけがないんです」と語っていた。

 確かに限られた人数の政治家だけで国家予算のすべてを考えていくことは、不可能なことにちがいない。しかし、政官関係を考える時、「官」の問題の中心に座るのは常に財務省であり、予算編成を真に国民本位のものに据えることが最も重要な政治問題だった。

 現に民主党政権が成立した2009年9月下旬、一時期仙谷由人から改革官僚として期待されていた古賀茂明が反対に政権構想から外されてしまったのは、「予算の越年編成」という財務省による警告があったのではないか、と古賀自身に推測されている。

 「私の唱える改革を快く思わない霞ヶ関の猛反発に屈したにちがいない。そうした一連のやりとりが、その後の民主党の路線変更につながったのは間違いないと思う」

 古賀はその著書『官僚の責任』(PHP新書)でこのように言及している。

小沢が主導した予算編成

陳情について検討する会議に臨む民主党の小沢一郎幹事長(中央)ら=2009年12月2日、国会
 しかし、2009年の秋から冬にかけて、看板の国家戦略局が沈んでいく一方で、民主党政権内では驚くような動きが始まっていた。民主党幹事長室をダイナモとして、まさに政治主導の予算編成が始動したのだ。その中心にいて差配していたのは、党幹事長の小沢一郎だった。

 党と内閣を一体化させるために族議員を生みやすい政策調査会をなくし、地方などからの予算陳情を党幹事長室と各都道府県連に一本化させたことは前回の小沢一郎戦記(7)『国家戦略局が沈み、小沢一郎幹事長が浮かんだ』で触れたが、2009年12月16日、小沢は幹事長室など党の議員約20人とともに首相官邸に鳩山由紀夫を訪ねた。2010年度予算案などに関する要望書を手渡すためだった。

 要望書の中では、マニフェストに掲げていたガソリン税の暫定税率廃止について「現在、石油価格は安定しているので、ガソリンなどの暫定税率は現在の租税水準を維持する」と書かれていた。民主党は2008年1月に「ガソリン値下げ隊」をつくり、暫定税率の廃止キャンペーンを繰り広げていたため、この方針変更については強い批判を受けた。

 「あの時は本当に苦しかった」

 鳩山由紀夫はこの時の経緯を振り返って、こう回顧した。

「自分としては、政権を取る時に、こういった暫定税率はもうやめにしようと話をしていたわけですから。しかし、財務省からはいろいろと資料を見せられて、また、暫定税率をなくすとガソリンがたくさん使われて環境に悪いというメッセージもたくさん流れてきて、私はここは非常に迷いました。その時に、小沢さんが

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