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小沢一郎が構想した予算編成

(8)小沢は裏の国家戦略局長となり、与党・政府一体化の政治システムが現出していた

佐藤章 ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

『大臣』に描かれた菅直人の官僚との闘い

 菅直人は東工大時代、マルクス主義とは距離を置いた学生運動に携わっていたが、大学卒業の前後を通じて市民運動に参加、政治学者の松下圭一・法政大学教授らを招いて勉強会を開いていた。松下は『市民自治の憲法理論』や『シビル・ミニマムの思想』などの著書があるが、イギリスの議院内閣制についても研究を進め、正確な知識を持っていた。

 岩波書店が発行する総合月刊誌『世界』の1997年8月号に「行政権とは何か」と題する鼎談が掲載されている。鼎談者は菅と松下、五十嵐敬喜・法政大学教授の3人だ。

 鼎談の中で、松下は、戦前型の「行政権中心」の三権分立と、文字通り国民主権を眼目にしたイギリス型の三権分立のちがいをわかりやすく説明している。簡単に言えば、戦前型は国会と内閣と裁判所を羊羹のように三つに切り、お互いに干渉し合わないようにさせるという考え方。松下によれば、これは現在の官僚も囚われている「講壇法学」あるいは「官僚法学」だ。

 一方、イギリス型の国民主権の三権分立というのは、国民が選んだ国会が内閣をつくり、この内閣が行政すべてを支配するという形になる。つまり、山口二郎が説明していた「立法権と行政権の融合」、小沢一郎が主張していた「与党と内閣の一体化」だ。松下も、山口や小沢も「官僚法学」に欺されず、本来の議院内閣制をきちんと思考していた。

 松下のこの考え方になじんでいた菅直人は1996年1月、橋本龍太郎内閣の厚生大臣に就任するとほぼ同時に「官僚法学」との闘いを始めざるをえなかった。当時大きな問題となっていた薬害エイズ事件について省内に調査委員会をつくろうとしたが、厚生官僚たちは「前例がない」と言って同意しなかった。その時の言い訳として「知りたいことがあるのなら、大臣には何でも教えますから」ということまで言われた。

 そんなエピソードが菅の著書『大臣』(岩波新書)に書かれている。つまり、大臣はたまたま行政側に入ってきたお飾り的存在、だから特別の行為であなたには教えてあげますよ、という感覚がこの時の厚生官僚のものなのだ。

 薬害エイズ事件の経験を振り返ったこの著書では、大臣として官庁に入った議員はまさに孤独なお飾り的存在でしかなく、力を発揮できない事情が説明されている。

 この事件では、現在の枝野幸男・立憲民主党代表が若手議員として菅の片腕となり厚生省の追及に力のあったことが記されている。枝野のような副大臣や政務次官など政治家チーム10人くらいが大臣の周りに帯同できれば、かなりちがった状況になる。経験に基づいた政治任用をめぐる菅の率直な感想だ。

拡大厚生大臣当時の菅直人氏=1996年10月0日

財務省が握ってきた予算編成権

 2009年9月、民主党政権が成立し、菅は新政権の要、国家戦略局の担当国務相となった。

 では、菅は過去の経験、思考内容を生かすことができただろうか。結論を先に記せば、残念ながらそれはできなかった。なぜだろうか。

 まず考えられることは、国家戦略局の考案者、松井孝治の政権設計スキームと菅のそれが一致しなかったという点だ。イギリス型の与党・内閣一体スキームを考えていた菅にとって、大所の予算編成を一手に握る国家戦略局の考え方は唐突なものに映った可能性がある。

 第二に考えられることは、菅が手足として考えていた党政策調査会がなくなってしまい、国家戦略局に帯同していく議員の調達が難しくなったということだ。

 だが、この二つの可能性は懸命に突破しようと思えば突破できないような問題ではなかったと考えられる。イギリス型の与党・内閣一体スキームでも、特定の問題については関係閣僚だけが議論する閣僚懇談会の制度がある。国家戦略局について、予算と財政問題を担当する重要な閣僚懇談会と読み替え、財務相ら経済関係閣僚と有意な各省副大臣、政務官クラスを集めれば、かなり踏み込んだ議論ができたのではないだろうか。

 この問題について話を聞きに行った時、菅は「国家戦略局で予算を考えようなんて簡単にできるわけがないんです」と語っていた。

 確かに限られた人数の政治家だけで国家予算のすべてを考えていくことは、不可能なことにちがいない。しかし、政官関係を考える時、「官」の問題の中心に座るのは常に財務省であり、予算編成を真に国民本位のものに据えることが最も重要な政治問題だった。

 現に民主党政権が成立した2009年9月下旬、一時期仙谷由人から改革官僚として期待されていた古賀茂明が反対に政権構想から外されてしまったのは、「予算の越年編成」という財務省による警告があったのではないか、と古賀自身に推測されている。

 「私の唱える改革を快く思わない霞ヶ関の猛反発に屈したにちがいない。そうした一連のやりとりが、その後の民主党の路線変更につながったのは間違いないと思う」

 古賀はその著書『官僚の責任』(PHP新書)でこのように言及している。

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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