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平成の「国民歌」…それは「翼をください」

秘話とともに昭和に生まれ/平成の「癒やし」に育ち半世紀

市川速水 朝日新聞編集委員

兵庫国体の開会式で「翼をください」を口ずさむ天皇・皇后両陛下=2006年9月30日

平成の「癒やしの歌」「心が弾む歌」

 平成の30年間で最も親しまれた曲はSMAPの「世界に一つだけの花」だった、と日本音楽著作権協会(JASRAC)が4月に発表した。正確にはCD売り上げのほか、配信やコンサート、カラオケなど使用に応じて作詞家、作曲家に分配された金額で比べたという。

 「オンリーワン」という歌詞は、没個性の風潮に抗(あらが)いたい、多様化の平成にふさわしいし、ヒット曲の鉄則である「明るさ」と「ノリの良さ」を兼ね備えている。平成時代と活動期間がそのまま一致するSMAPもまた、平成の象徴にふさわしい。

 では、平成に「癒やしの歌」「心が弾む歌」として変幻自在に歌い継がれた歌といったら?ランキングなどないようだが、流行歌を追い続け、還暦を間近にした私の体感では、トップはぶっちぎりで「翼をください」だろう。

 1970年、フォークグループ「赤い鳥」が世に出して以来、来年で半世紀になる。

 一人で歌っても、合唱しても、演奏しても、古くてとても新しい。音楽的にも秘密が詰まっている。

 平成で印象に残る場面がいくつもあった。新聞記事などから拾ってみると――。

・阪神大震災で被災した視覚障害者を支援する京都府城陽市のチャリティーコンサートで、視覚に障害があるバンドがこの曲を演奏した(1995年5月)
・サッカーのフランスW杯アジア予選で、この歌が日本チームの応援歌になった。「フランスに飛んで行きたい」という願いを込めて、W杯初出場を願うサポーターが自然発生的に歌い始めた(1997年10月)
・天皇・皇后両陛下が山形市の身体障害者施設を訪問。利用者たちが手話を交えてこの歌を歌って迎えた(2002年6月)
・大阪教育大付属池田小学校の児童らが殺傷された事件から1年後、大阪府豊中市で催された追悼集会で、8人の遺影を前に6年生がこの曲を演奏した(2002年6月)
・アメリカのイラク戦争に抗議し、平和を願う市民団体が、日曜日に鎌倉駅で行き交う人に歌で反戦を訴えた(2003年~)
・阪神大震災の復興をアピールする兵庫国体の開会式で、天皇陛下が「この大会が支援の手を差し伸べてきた全国の人々への感謝の気持ちを込めて開催されることは意義深いことと思います」と述べた。また、「翼」の合唱に合わせてお二人で口ずさんだ(2006年9月)
・北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの中学時代の同級生が、新潟市で開いたチャリティーコンサートでめぐみさんと合唱したことがあるこの歌を歌い、一日も早い救出への願いを込めた(2013年9月)
・東日本大震災から5年の「3.11」に、北九州市でも鎮魂の曲としてこの歌が選ばれ、地震発生時刻に500人が黙とうを捧げた後、合唱した(2016年3月)

 これらは、ほんの一握りにすぎない。私自身も、取材先の障害者施設や卒業式で「翼」を聴いたことが何度かある。仕事で悩んでいた時、市民音楽祭で特別支援学校の子供たちが舞台で演奏するのを聴いて、また頑張ろうと励まされたこともある。

音楽教師に圧倒的人気

 平成とは、「大震災時代」への突入であり、拉致問題が明らかになり、小学校に侵入されて児童が命を落とすという痛ましい事件があり、天皇ご夫妻が震災被災者を慰問する旅で各地を訪れ、障害者問題に光が当たった。サッカーW杯出場という嬉しいニュースもあった。

 これら平成史を縁取り、要所ごとで歌われ続けてきた、「国民歌」ともいえる歌が「翼をください」なのだった。

「赤い鳥」から分かれた「ハイ・ファイ・セット」のデビュー当時

 ところで、なぜみんなそろって歌えるのか。

 学校の音楽の授業の影響が大きいといえるだろう。この曲が教科書の定番になって久しい。

 最大手の教育芸術社が発行する教科書では小、中学校、高校全部で採用している。同社によると、「赤い鳥」が解散した2年後の1976年の検定分から高校、中学、小学の順で採用され、その後も小・中は途切れることなく、延々と採用が続いている。高校版でも現在、採用されている。

 小学校はメロディーを中心に、中学では男女の合唱のハーモニーやアレンジを楽しむ工夫がされている。同社の教科書が採用されるシェアは中学校で8割、小学校7割、高校でも5割強と圧倒的だ。

 音楽の授業で同社の教科書を使ったとすれば、50代から小学生まで、すべてがこの曲を一度は習うことになる。いつの間にか、ふとした場面で「この曲なら歌える」と合唱できてしまうのも自然なことだろう。

 「教科書改訂のたびに、どんな歌を載せるか、音楽教師の方々にアンケートをしてきたのですが、『翼』は圧倒的に支持率が高く、幅広い。流行の寿命が短い日本のポップスとしては特別なことです。これに匹敵する曲はないでしょう」

 第一編集部長の今井康人さん(59)はそう話す。

 「覚えやすく歌いやすいメロディーと、自由を夢見て命の息吹が感じられる歌詞が根強い人気の理由ではないでしょうか」

 今年3月に検定結果が公表された小学校の音楽教科書にも掲載され、令和の教科書にも引き継がれることが決まったばかりだ。

ドタバタだった「翼」づくり

 「翼」のメロディーと詞には、ロングセラーならではの秘密があった。作詞家、作曲家の生の言葉とともに曲が生まれた瞬間を少し振り返ってみる。

 「翼をください」は、高度成長期にグループサウンズや歌謡曲が百花繚乱の時代に発表された。三重県で1970年11月に開かれた「合歓(ねむ)ポピュラーフェスティバル」がその舞台だった。「第一線で活躍する作曲家が未発表のオリジナル曲を携えて参加する新曲発表コンクール」という、今では考えられないほど贅沢なコンセプトの催しだった。

 作曲は村井邦彦さん(74)。作曲は山上路夫さん(82)。歌ったのは5人組の「赤い鳥」。「赤い鳥」は事実上のプロデビューだった。

作詞家の山上路夫さん=1974年
作曲家の村井邦彦さん=2017年

 村井さんはこの時期に前後して「虹と雪のバラード」(トワ・エ・モワ)、「エメラルドの伝説」(ザ・テンプターズ)、「美しき愛の掟」(ザ・タイガース)などを生み出してきた、美しいハーモニーが得意のメロディーメーカー。

 山上さんも「夜明けのスキャット」(由紀さおり)、「瀬戸の花嫁」(小柳ルミ子)、「学生街の喫茶店」(ガロ)など歌謡史に残るヒット曲を連発する。トワ・エ・モワの「或る日突然」は、山上・村井コンビによるものだ。

 しかし、当時、新進気鋭の若手だった二人の「翼」づくりはドタバタだった。

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