今も昭和の記憶とともに生きる沖縄。平成が終わり令和を迎えた沖縄のキーワードは自立
2019年05月01日
2019年5月1日、元号が「平成」から「令和」に変わった。30年続いた平成。令和は何年続くだろうか。
本土では令和フィーバーがかまびすしいようだ。だが、ここ沖縄では(筆者は沖縄で暮らしている)、フィーバーはあまり感じない。平成を惜しむ気持ちはもちろんあるが、それよりも強く感じるのは、昭和という時代の存在感だ。
平成の前、63年の長きにわたり続いた「昭和」の記憶は、いまだに沖縄の人びとを捕らえて放さない。とりわけ強いのは、1945年の太平洋戦争末期の沖縄戦の記憶である。そこから1972年の沖縄返還までの米軍の占領期、沖縄の呼び方でいえば「アメリカ世(ゆー)」の記憶は、今もくり返し強烈に思い出され、昨日のことのように鮮やかに語られる。むしろ時間がたち、関係者が少なくなり、しがらみがなくなったことで、元号が令和に替わることをきっかけに、沖縄戦や「アメリカ世」の記憶について、語り始めた人さえいる。
そもそも沖縄では、戦争と戦後処理で支配者や帰属が変わるタイミングを、時代の区分としてきた。中国の冊封体制下にあった琉球王国時代の「唐世(とぅゆー)」、明治初期の琉球処分以後の「大和世(やまとぅゆー)」、先述の「アメリカ世」、その後、日本に復帰して再び「大和世」へ。元号による区分とは異なる歴史認識が沖縄には存在している。
沖縄の人々が、昭和の記憶とともに生き続けるのは、沖縄戦や「アメリカ世」の当事者であった日米両政府が、歴史を清算せず、むしろ忘却あるいは正当化しようとしていると感じるからだ。いまだに昭和も清算されていないのに、令和を無邪気に喜ぶことはできないのだ。
嘉手納基地(嘉手納町)や普天間飛行場(宜野湾市)は、米軍が沖縄戦での上陸と同時に占拠、あるいは建設した基地だ。普天間飛行場をめぐる有名なデマに、「何もない場所に米軍が建てた後、住民がその周囲に住み始めた」というものがある。いま普天間飛行場になっている一帯には、かつて村役場を中心とする集落があった。米軍が集落を破壊して飛行場を建設したというのが真実だ。
安倍晋三首相に近いとされる小説家が、自民党の勉強会でこのデマを事実のように話したことがあった。その時、沖縄の人々は昭和の記憶を生々しく蘇らせた。昭和は沖縄人の心の底に、いまも強く深く存在している。
メディア各社の世論調査によれば、沖縄県内の有権者の約6~7割は、普天間飛行場の辺野古移設に反対している。2014年の沖縄県知事選で、現職の仲井眞弘多氏が敗れて以来、自公候補は選挙で移設の是非に触れない「辺野古隠し」を定石としてきた。今回の選挙で「辺野古隠し」が行われなかったことは、民主主義の観点から喜ばしい。
屋良氏は、選挙で「オール沖縄」の支援を受けたことや、沖縄タイムスの記者、論説委員をつとめた経歴などから、「革新派」の政治家と見られている。だが、彼の代表作『砂上の同盟』『誤解だらけの沖縄・米軍基地』を読めば、その思想が単純にイデオロギーで分けられるものではないことが分かる。
日米両政府が、普天間飛行場の県内移設を正当化するために使う「在沖海兵隊は抑止力」だという議論に根拠がないことを、屋良氏は一貫して軍事戦略の観点から解き明かしてきた。『砂上の同盟』が刊行された2009年のから10年間に、屋良氏の主張は全国に浸透した。実際、安倍晋三内閣は普天間県内移設の理由として、もっぱら「一日も早い普天間の危険性除去」を主張するようになっている。
沖縄の「革新派」の政治家は、沖縄戦の記憶を語り継ぎ、基地のない平和な沖縄を目指してきた。一方、沖縄の伝統的な「保守派」政治家は、沖縄戦の記憶を持ちつつも、自民党を支持し、米軍基地の受け入れとひきかえに経済振興を求めた。
沖縄の保守派の本流ともいえる故・翁長雄志氏(前沖縄県知事)は、1950年生まれで沖縄戦を体験していないが、父親から沖縄戦の体験を聞かされて育っている。2007年に安倍内閣のもとで出来(しゅったい)した教科書問題(高校の歴史教科書検定で、沖縄戦の「集団自決」に対する日本軍の強制性が削除された)をきっかけに、翁長氏は日本政府を批判するようになる。沖縄戦の記憶は、保守派の翁長氏と革新派を結びつけ、オール沖縄を誕生させた。
こうした「沖縄戦世代」の政治家に対し、玉城知事や今回当選した屋良氏は「アメリカ世世代」の政治家といえる。
屋良氏は1962年生まれ。アメリカが本格的にベトナムへ軍事介入していく時期に育ち、物心がつくかつかないかで日本復帰を迎えた。屋良氏より3歳年上の玉城知事も同じだ。彼らは幼年期にアメリカ人の圧倒的な豊かさを見せつけられ、ロックなどの開放的な文化に憧れを抱くという「原体験」を共有している。ベトナム戦争中、生きて帰れるかわからない米兵は戦場に行く前、沖縄であり金をはたいて遊んだ。刹那的で享楽的だが、生死をリアルに見据えた切実な「空気」もまた、彼らは知っている。
家族を通じて米軍に触れ、アメリカ文化に接して育った玉城知事と屋良氏は、「革新派」にはなれない。米軍基地の存在を全面的に否定することは、彼ら自身の生い立ちを否定することにつながりかねないからだ。とはいえ、彼らは自民党を支持する旧来の「保守派」にもなりえない。自民党の立ち位置が現実から乖離(かいり)してしまったからだ。
自民党の変容はいつから進んだのか。「沖縄戦世代」の翁長氏が自民党県連幹事長を務めた1990年代にはまだ、自民党を通じた中央―地方間の富の再分配機能が生きており、それが可能だった。島田懇談会(橋本龍太郎政権が1996年に設けた官房長官の私的諮問機関。島田晴雄慶応大教授が座長を務めた)で決定された計836億円の振興事業をはじめとする莫大な沖縄振興予算は、バブルが崩壊した後も世界第2位の経済大国の座を維持していた、日本経済の底力によるものだ。
だが2000年代に入り、日本経済の低迷が深刻化するなか、国の財政は厳しくなり、自民党による富の再分配機能は必ずしも機能しなくなった。小泉純一郎内閣で実施された国と地方の「三位一体改革」、世界を揺るがせた2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災を経て、自民党政権には
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