元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑦小沢氏の夫人も参加した住専デモ
2019年04月28日
連載・女性政治家が見た! 聞いた! おもしろすぎる日本の政治
1993年8月に日本新党代表の細川護熙さんが総理になった経緯は、この連載の中で幾度となく触れた。そのとき私たち日本新党の議員たちは大喜びしたのだが、それも束の間、細川さんは「むやみに官邸には来るな」と言った。
そのためには、まずは勉強である。そこで日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)頭取・会長、経済同友会代表幹事などを歴任された中山素平さん、興銀の常務・久水宏之さん、初代メキシコ支店長だった足立哲朗さん、また東京電力会長の平岩外四さんの懐刀といわれた常任監査役・川又民夫さんらに「ブレーン」となってもらい、「新政策フォーラム」という勉強会を始めた。
この勉強会から総理に提案したことは少なくないが、なかでも印象に残っているのは、1993年の年末の意見具申であった。
どの新聞にも総理の一日の動向を記す記事がある。朝日新聞の場合、「首相動静」と呼ばれるその欄には、総理がどんな人に会ったかが克明に記録されている。だが、93年末のその日、私たちが中山素平さん、久水宏之さんらとともに、関西の某銀行が危機にあるという情報を携え、細川総理に会いにいったということは1行たりとも出ていない。
何のために、人目(記者の目?)を忍んで総理に会いに行ったのか。それは、銀行に対する公的資金の注入を具申するためだった。
毎週、金融などのデータを基に研究していた私たちは、事態の深刻化を防ぐには、とにかく総理に現状を正しく理解してもらい、手を打ってもらうしかないと考えたのだ。
だが、93年末といえば、細川総理が政権の最大課題に掲げていた政治改革の年内成立が難しくなった時期だった。さらに、ウルグアイ・ラウンド(ガットの新多角的貿易交渉)にからみ、「コメ市場の部分開放」を総理が決断したため、日本中から非難の声が上がり、細川総理を模した藁人形が焼かれる事件も起きていた。思案すべきことがいろいろ山積していたのだろう。総理は金融危機という事態をすんなり受け入れられない様子だった。
この“故事”を踏まえ、中山素平さんは細川総理に言った。
「角さんの時は、銀行も経済界もついてきてくれましたが、今はどこも体力がない。総理のあなたが一人でやらなければなりません」
そう言われて、総理と言えども困ったのだろう。中山素平さんたちの情報分析を信用しなかったわけではないだろうが、大蔵省の寺村信行銀行局長に問い合わせた。
その間、私は公邸の庭を眺めていた。庭に面したその部屋には、日本新党にあった大きな一枚板の白木のテーブルがあり、私たちはその周りに座っていたので、懐かしい思いに一瞬浸った。しかし、寺村局長の返事で現実に引き戻された。
「現在の不良債権の額を大蔵省は把握してますか? 関西のほうの銀行が危ないという話もありますが」
そう聞いた総理に局長は、「銀行は大丈夫です。不良債権も12兆5千億ほど。たいしたことありません」と答えたのである。
そんな馬鹿な!
我が国は、バブル絶頂期、名目で2千兆円の不動産と金融資産があったのだが、バブル崩壊によって実に半分の1千兆円になってしまったことを、中山さんたちは気づいていて、だからこそ早めに処理が必要と言いにきたのだ。その処理にも相当な額がいると感じていたのに、たいしたことはないといわれてしまったのである。
中山さんたちは実情はそんなものではないと考え、だからこそ総理に公的資金投入を直訴したのだ。だが、惜しむらくは、損失の総額を把握できていなかった。総理から「どのくらいの資金投入が必要か」と聞かれ、はっきりとは答えられなかった。
当時ゴールドマンサックスにいたアナリストのデービッド・アトキンソン氏は、バブル崩壊後の日本の銀行に眠る巨額の不良債権を指摘し、2百兆円の資金投入が必要だというレポートをその後、出している。中山さんたちが、莫大な不良債権の処理が早急に必要だと察知したのは先見の明があったことになる。しかし、総額が分からなければ、総理も決断のしようがない。
当時は、「銀行もどこも危機などありませんよ。いったい誰が総理にそんなオオカミ少年みたいな話をお耳に入れたんですか」とも大蔵省の幹部に言われたものだが、その後の莫大な公的資金の投入と、それをもってしても金融崩壊をとめられなかった厳しい現実をみるにつけ、1993年のあの時、総理が公的資金注入を決断していたら、日本の「失われた10年」とも「20年」とも言われた経済の停滞を防げたのではないか。歴史に「if」(もしも)はないとわかっていても、悔まれてならないのである。
私は大学でシェイクスピアにのめりこんでいた。シェイクスピアの時代の芝居は、日本の歌舞伎のように役者は男性だけ。ジュリエットもオフェーリアもすべて男性が演じていたが、女子大にいた私は、女性だけで「マクベス」や「十二夜」、「真夏の夜の夢」、「じゃじゃ馬馴らし」を演じていた。
「リア王」の中で庶子のエドモンドが、「年寄りばかりが大金をもっていて、若い者が使える金もないなんて不公平じゃないか」と吐き捨てる場面や、「ベニスの商人」に登場する金貸しシャイロックの振る舞いなどから、人間と経済の密接な関係を知ったり、経済が「経国済民」という意味であることを理解したりはしていても、「経済」というものに私は関心を持てなかった。大学卒業時には、かなりの倍率のダイヤモンド社(経済やビジネス書をだしている)に合格し、人事部長が説得にまで来てくれたのに、「やっぱり経済は私に向かない」と偉そうに入社を断ったりもした。
専門家が提言しても、経済の未来を予測するのは難しく、総理一人では決断できないこと。たぶん事態を予測していたに違いない大蔵省や銀行局長も、難局から逃げ腰になること。1~2年後のことでさえ、きちんと予測して国民のために手を打つことが、実は至難の業であることを、皮膚感覚で理解したからだ。その後、1990年代半ば以降、倒産や失業、自殺が日本国中にあふれることになる。
失業手当も生活保護などの社会保障も大事だと私は思う。しかし、おおもとの国の経済が崩壊しては何もできない。それこそ経済を建て直すため、戦争さえおこす人たちがいるのは、歴史を少しでもひもとけば明白だ。
経済は人々の命とくらしを守る根源である。そう思い至り、必死に勉強を始めた経済オンチの私を支えてくれたのは、先述した新政策フォーラムの「ブレーン」たちだった。花形の予算委員会ではなく、地味だが決算委員会に入ってじっくり勉強しなさいと勧めてもくれた。
その決算委員会で、私が初めて質問をしたのは1995年12月26日だ。取り上げたのは住専問題だった。
バブル期に個人向けの住宅ローンだけでなく、事業者向け融資を急増させていた住宅金融専門会社、いわゆる住専は、バブル経済の崩壊によって、総額10兆円にも及ぶ負債を抱え、一社をのぞいて倒産。これらの住専に農林系金融機関などが貸しこんでいたため、金融システムの破綻(はたん)を避ける必要から、政府は住専処理法を提出した。村山富市内閣の時である。
この法案が成立したのは1996年6月だが、村山内閣が前年1995年12月19日、住専処理のため6850億円の公的資金投入を決めると、たちまち反対の嵐がまきおこった。当時、私が属していた新進党は街頭でデモを繰り広げた。
執行部メンバーの夫人たちまで動員し、96年3月15日には雨の中を国会前でデモ行進もしてもらった。こういう集まりにはめったに参加しない小沢一郎さんの夫人や、海部俊樹さんらの夫人も集まって下さった。
デモよりすごかったのは、法案の成立を阻止するため、衆院第一委員会室(テレビ中継でよく見る予算委員会が行なわれる部屋である)の廊下や階段で夜中まで反対の坐りこみをしたことだ。この坐りこみはきつかった。毎晩、帰宅は11時、12時になる。中学1年の娘を一人でほっておけず、7時くらいになるとトイレに行くふりをして、そっと抜け出し、宿舎に走って帰った。夕食を2人で作って2人で食べ、9時までに国会に戻るということを繰り返した。
6850億円の公的資金投入が決まった1995年12月19日は、第34回臨時国会が閉会して4日後だった。決算委員会の理事をつとめていた私は、緊急を要する案件と判断し、与党理事や委員長を説得し、閉会中に委員会を開くことにした。
12月26日、私は決算委員会で村山総理と武村大蔵大臣に金融政策上の行政責任を追及した。ところが、年明け早々、村山総理が突然辞任、橋本龍太郎政権に替わる。結果的に、住専問題について村山、武村両氏を追及できたのは、この参議院の決算委員会だけということになった。そのビデオを見たいと、連合の幹部やエコノミストなど20人近くが私の宿舎の部屋に集まって、分析、研究したのを覚えている。
決算委員会の後、花形の予算委員会の委員、理事を歴任し、総理や財務大臣、日銀総裁などに質問する機会を何度もいただけたが、予算委で質問するとなると、生半可な勉強では追いつかなかった。
久水さんや足立さんが指南してくれ、読んでおきなさいという本のリストを次々と渡される。中山素平さんが「生きた経済の問題を解決する道は、正統の意見と異端の意見の間にある」とおっしゃっていたこともあり、渡される本のリストはさまざまな種類に渡っていた。
「強い通貨を目指す」が持論の日銀総裁の速水優さんには、私の名前と「円」を引っかけて、「円というのはただ強いだけではなく、内外で喜んで使われるものであってほしい。品の良さというか、品格のある、品のある通貨であるべきです」と委員会で答弁されたことがある。うまいことを言うな、と思ったものだ。
国会議員暮らしのなかで、私は参議院の財政金融委員長に二度もなっている。民主党のNC(ネックストキャビネットとも次の内閣とも言ったが、要するにシャドウキャビネットであるが)の財務大臣にもなった。財政金融委員会はあまり人気がなく、特に女性議員は少ない。女性が財政金融委員会の委員長になったのは私が初めてだった。
財政金融委員長だったとき、財務大臣だった与謝野馨さんと囲碁を打ったことがある。与謝野さんは「政界最強」と言われていた人で、小沢一郎さんとの2007年10月の対局で負けたのは、相当悔しかったらしい。
もちろん、小沢さんも囲碁は強い。あるとき「円さんも囲碁が好きなの?腕前は?」と聞かれたことがある。「まだ初段になる前です」と答えると、「早く強くなれよ。そしたら対局しよう」と言われたが、腕前は上がらず実現していない。そんなヘボ碁しか打てない私と、与謝野さんが対局の相手をしてくれたのは、財政委員会での「お礼」だったと思えてならない。
財務大臣は激務である。各国の財務相との会談やIMFなどの国際会議などでしょっちゅう外遊しなければならない。与謝野さんは喉頭がんだったかの手術後で、いつも委員会にティッシュ一箱を抱えてきて、しょっちゅうティッシュで口を拭いていた。答弁の内容は明晰だが、しゃべるのが辛そうだった。
与謝野財務大臣が会議を終えてヨーロッパからどんなに早く帰国しても、成田に着くのは委員会当日の朝になるという。私は野党の委員長だが、野党理事らを説得し、午前10時からの開会を遅らせたことがあった。いくつかそうした配慮をしたのは、国会議員としても財務大臣としても一流の政策マンである与謝野さんにいつまでも元気で活躍してほしいと思ったからである。
与謝野さんは、正目(九目)を置いても勝てない相手なのに、「円さん、互い戦にしようよ」と言い、大惨敗にならないよう、上手に手加減して小敗ですませてくれた。お手本になるようなきれいな碁だった。「また、打ちましょう」「はい、精進しておきます」その約束が果たせぬまま、与謝野さんはあの世に行ってしまった。
「円さん、政治家は忙しいから、なかなか相手を見つけて打つ時間がないけど、インターネットで勉強するといいよ。僕はいつもインターネット相手で打ってるよ」そう言っていた与謝野さん、今頃、あの世で誰と打っているのだろう……。(続く)
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