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政治は経済と知った中山素平氏の細川首相への具申

元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑦小沢氏の夫人も参加した住専デモ

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

拡大「住専」に抗議する集会で発言する円より子=1996年2月22日

総理に提案するために始めた勉強会

 1993年8月に日本新党代表の細川護熙さんが総理になった経緯は、この連載の中で幾度となく触れた。そのとき私たち日本新党の議員たちは大喜びしたのだが、それも束の間、細川さんは「むやみに官邸には来るな」と言った。

総理に政策提言したいと立ち上げた毎週1回開いていた勉強会「新政策フォーラム」=1993月11月24日拡大総理に政策提言したいと立ち上げた毎週1回開いていた勉強会「新政策フォーラム」=1993月11月24日
 できたばかりの新党で、所属する議員はみな、当選1回。いわゆる一年生議員である。総理の役に立たないのは重々わかってはいたが、私たちなりに細川さんに政策提言もしたいと考えた。

 そのためには、まずは勉強である。そこで日本興業銀行(現:みずほフィナンシャルグループ)頭取・会長、経済同友会代表幹事などを歴任された中山素平さん、興銀の常務・久水宏之さん、初代メキシコ支店長だった足立哲朗さん、また東京電力会長の平岩外四さんの懐刀といわれた常任監査役・川又民夫さんらに「ブレーン」となってもらい、「新政策フォーラム」という勉強会を始めた。

 この勉強会から総理に提案したことは少なくないが、なかでも印象に残っているのは、1993年の年末の意見具申であった。

人目を忍んで銀行への公的資金注入を具申

 どの新聞にも総理の一日の動向を記す記事がある。朝日新聞の場合、「首相動静」と呼ばれるその欄には、総理がどんな人に会ったかが克明に記録されている。だが、93年末のその日、私たちが中山素平さん、久水宏之さんらとともに、関西の某銀行が危機にあるという情報を携え、細川総理に会いにいったということは1行たりとも出ていない。

 何のために、人目(記者の目?)を忍んで総理に会いに行ったのか。それは、銀行に対する公的資金の注入を具申するためだった。

ウルグアイ・ラウンド(ガットの新多角的貿易交渉)のコメ市場開放問題について、臨時閣議でコメ市場の部分開放決定後、記者会見で説明する細川護煕首相=1993年12月14日、首相官邸拡大ウルグアイ・ラウンド(ガットの新多角的貿易交渉)のコメ市場開放問題について、臨時閣議でコメ市場の部分開放決定後、記者会見で説明する細川護煕首相=1993年12月14日、首相官邸
 具体的に言えば、我が国の経済が緊急避難の対策を要する未曾有の事態にあること。政策のタイミングを失すれば失業の増大、連鎖的倒産、景気の底割れは避けがたく、消費の低迷や資産デフレの悪循環が進行する。だからこそ、すみやかに銀行に公的資金を投入すべき――という内容だった。

 毎週、金融などのデータを基に研究していた私たちは、事態の深刻化を防ぐには、とにかく総理に現状を正しく理解してもらい、手を打ってもらうしかないと考えたのだ。

 だが、93年末といえば、細川総理が政権の最大課題に掲げていた政治改革の年内成立が難しくなった時期だった。さらに、ウルグアイ・ラウンド(ガットの新多角的貿易交渉)にからみ、「コメ市場の部分開放」を総理が決断したため、日本中から非難の声が上がり、細川総理を模した藁人形が焼かれる事件も起きていた。思案すべきことがいろいろ山積していたのだろう。総理は金融危機という事態をすんなり受け入れられない様子だった。


筆者

円より子

円より子(まどか・よりこ) 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

ジャパンタイムズ編集局勤務後、フリージャ―ナリスト、評論家として著書40冊、テレビ・講演で活躍後、1992年日本新党結党に参加。党則にクオータ制採用。「女性のための政治スクール」設立。現在までに100人近い議員を誕生させている。1993年から2010年まで参議院議員。民主党副代表、財政金融委員長等を歴任。盗聴法強行採決時には史上初3時間のフィリバスターを本会議場で行なった。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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