平成政治の興亡 私が見た権力者たち(15)
2019年04月27日
52歳。戦後最年少で首相となった安倍晋三氏は2006(平成18)年9月26日、国会で首班指名を受けると、ただちに組閣と自民党役員人事に着手した。
内閣の要ともいえる官房長官は、同じ派閥の側近を登用するケースが多いが、安倍首相は所属する森派ではなく、ハト派の宏池会(当時は丹羽・古賀派と呼ばれていた)に所属する塩崎恭久氏を抜擢(ばってき)した。塩崎氏は日銀勤務の後、1993年の衆院選で初当選。安倍氏とは、根本匠、石原伸晃両氏を加えた4人で集まり、それぞれの頭文字をとって「NAIS」(ナイス)という会で政策の勉強を続けてきた。まさしく「お友達」である。
外相には麻生太郎氏が再任され、総務相には当選4回の菅義偉氏が起用された。菅氏は、早くから北朝鮮の拉致問題に対する制裁をめぐって安倍氏と協力してきた経緯があり、この入閣は第2次安倍政権の安倍首相・菅官房長官体制につながっていく。また、自民党幹事長には森派の中川秀直氏、政調会長には安倍氏と気脈の通じるタカ派の中川昭一氏が就いた。
安倍首相はまず、外交で動いた。小泉前首相が任期中、毎年、靖国神社を参拝したことですっかり悪化していた日中関係を改善するため、電撃的な中国訪問に踏み切ったのだ。
これには伏線があった。外務省の当時の事務次官、谷内正太郎氏が中国側と極秘裏に接触。安倍首相は在任中の靖国神社参拝は見合わせるだろうという見通しを伝え、中国側はこれを評価していた。
谷内氏と安倍首相との付き合いは1983年にさかのぼる。安倍氏の父、晋太郎氏が外相で、晋三氏はその秘書官。谷内氏は松永信雄外務事務次官の秘書官で、二人は大臣と次官の秘書官同士で親交を深めた。外務省条約局長などを経て事務次官になった谷内氏は、以来、安倍氏の外交指南役を続ける。第2次安倍政権では、新設された首相直属の国家安全保障局の初代局長に就き、安倍外交の司令塔となった。
翌日の9日、訪中を終えて韓国に向かう安倍首相に伝えられたのが、北朝鮮が初の核実験を強行したという情報だった。ソウルでの盧武鉉大統領との日韓首脳会談の最大のテーマも北朝鮮の核への対応だった。その後、北朝鮮の核問題は、東アジアの安全保障の最大の課題であり続ける。
こうして初の外遊を乗り切った安倍首相だが、国内で落とし穴が待っていた。小泉政権下の郵政民営化法案の採決で反対に回った“造反組”の復党問題が浮上したのだ。
この問題をめぐり、翌年の参院選に向けて造反議員の協力を得たい青木幹雄参院議員会長と、造反議員を受け入れれば安倍政権の「改革路線」に疑いの目が向けられる懸念した中川秀直幹事長が対立。結局、安倍首相は復党を認める判断をした。
12人の造反組のうち、堀内光雄、保利耕輔、野田聖子、森山裕各氏ら11人が「郵政民営化の公約順守」などの誓約書を提出して復党した。平沼赳夫氏は誓約書提出を拒否し、復党しなかった。12月4日、安倍首相は復党組と会談し、「お帰りなさい。新たな仲間として参加してもらい、大変心強く思っている」と述べた。だが、これが世論には「改革の後退」と映った。内閣支持率は急落する。
2005年9月の郵政総選挙で小泉自民党に大敗した民主党。岡田克也代表は辞任し、後任に43歳の前原誠司氏が選出された。前原氏の若さに期待も集まったが、彼にも落とし穴が待っていた。
06年2月の衆院予算委員会で民主党の永田寿康議員が、ライブドアの堀江貴文元社長の「社内メール」を暴露した。メールの内容は、堀江元社長が自民党の武部勤幹事長の次男宛てに3千万円を送金するよう指示したというものだった。前原代表は「資金提供の確証を得ている」と自信を見せたが、小泉首相は「メールはガセネタだ」と反論。結局、メールは偽物と判明した。
永田氏は議員辞職に追い込まれ、前原代表も3月に辞任する。後任を決める選挙ではは小沢一郎氏が菅直人氏を大差で退け、代表の座に就いた。小沢氏は「打倒自民党」を掲げて本格稼働した。
07年1月に開幕した通常国会は安倍・自民対小沢・民主の全面対決となったが、閣僚の失態が相次いだ。
柳沢伯夫・厚生労働相が少子化問題に絡んで女性を「産む機械」にたとえて批判を浴びた。松岡利勝・農水相の事務所費問題も発覚する。安倍首相は2人とも続投させたが、国会での追及はやまなかった。さらに、民主党の長妻昭氏を中心に、約5千万人分の年金の納付記録が誰のものか分からなくなっている実態が暴かれた。「消えた年金」と言われ、国会審議は連日紛糾した。
そんななか、安倍首相は、将来の憲法改正に向けた手続きを定める国民投票法案の成立を急いだ。衆参両院とも、民主党など野党の反対を押し切り、自民、公明両党が採決を強行し、国民投票法は5月14日に参院本会議で可決、成立した。民主党は「安倍政権は国民生活にかかわる年金問題より憲法改正を優先している」と批判した。
閣僚の失態はその後も続く。6月30日、久間章生防衛相が広島、長崎への原爆投下について「あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、今しょうがないと思っている」と発言。与党の公明党からも批判が出て、久間氏は7月3日、辞任した。安倍首相も、側近の「お友だち」もなす術がないまま、政権への逆風は強まっていった。
政権に厳しい状況下、7月12日に公示された参院選では、選挙事情に通じる民主党の小沢代表が巧みな戦術を繰り出した。
まずコントラスト作戦。岡山選挙区の片山虎之助・参院幹事長のような自民党の長老候補には、対照的なイメージを持つ女性の新顔候補をぶつけた。次に川上作戦。選挙中、小沢氏は都市部に注ぐ河川の上流に位置する山間部で演説を重ねた。安倍首相が有権者の多い都市部を重点的に回ったのに対して、「民主党は地方重視」を印象づけた。小沢氏は地方行脚で労組の連合幹部と懇談。細かな選挙戦術を伝授した。
投票日の7月29日。自民党は改選議席64を大幅に減らす37議席。29の1人区で自民党が勝ったのは、わずか6選挙区にとどまり、片山虎之助氏をはじめ有力候補が軒並み落選した。民主党は改選前の32から倍増の60議席を獲得。参院第一党に躍進した。公明党は改選12に対して9議席。共産党3議席、社民党2議席などとなった。衆院は与党が圧倒的な多数だが、参院では野党が多数を占める「ねじれ」国会が現出した。
自民党惨敗を受け、安倍首相の進退が焦点となる。だが、安倍氏は「改革を続行し、新しい国づくりをすると約束した。約束を果たすことが、私の責任、使命だ」と語り、続投を宣言した。
安倍首相は8月19日から25日までインドネシア、インド、マレーシアを歴訪。27日に自民党役員人事と内閣改造を行い、政権の建て直しを図ろうとした。ただ、この時の外遊に同行した政府関係者から当時、こんな話を聞いた。「安倍首相は外遊中、頻繁にトイレに駆け込み、かなりつらそうだった。首相の激務はとうてい務まらないだろう」
自民党役員人事では、麻生太郎氏を幹事長、二階俊博氏を総務会長、石原伸晃氏を政調会長に充てた。官房長官には、与謝野馨氏を起用。体制を整えて、9月10日からの臨時国会に臨んだ。だが、初日に所信表明演説を行った安倍首相に12日午後からの代表質問に対応できる体力はなかった。
12日午後2時。緊急会見をした安倍首相は退陣を表明。首相在任約1年の、あっけない幕切れだった。
第1次安倍政権は、憲法改正、アジア外交の立て直し、経済再生など幅広い課題に取り組もうとした。だが、「お友だち」中心の政権運営は脇が甘く、緊張感に欠けた。小泉改革で生じた格差などをめぐり、社会に広がる不満に十分に対応できず、志半ばでの退場となった。
突然の退陣に自民党内は混乱した。、後継総裁に麻生幹事長が意欲を見せたことに反発は出たが、対抗馬として誰を推すかが定まらない。だが、私は福田康夫・元官房長官が立候補すると確信していた。
福田氏はもともと、1年前に安倍氏が総裁に選ばれた際も対抗馬の一人と見られていたが、高齢を理由に固辞。その時、福田氏が「安倍君が経済や外交が分かっているかどうか。心配だよ」と悔しそうに語っていたのを覚えていたからだ。森喜朗元首相が福田氏に立候補を促し、本人は総裁選の告示直前に受け入れた。
福田氏と麻生氏の争いとなった総裁選では、麻生派以外の主要派閥が福田氏を推し、9月23日の投票の結果、福田氏が330票を獲得、197票の麻生氏に圧勝した。25日の衆院本会議で首相指名を受けた福田氏は「背水の陣内閣」と宣言。自民党幹事長に伊吹文明氏、官房長官に町村信孝氏を充てるなど党・内閣の布陣を一部手直しして政権をスタートさせた。
その底流で大きな策略が進行していた。自民、民主両党による大連立である。
参院選で圧勝した小沢民主党代表は、読売新聞グループの渡辺恒雄会長に自民党との大連立に向けた仲介を求めた。渡辺氏は森、福田両氏に打診し、大連立に向けた話し合いが進んでいたのである(注)。
(注)
森氏は大連立について、次のように回想している。
「読売新聞の渡辺恒雄さんから私に電話があった。「(小沢)一郎が何度もおれに『大連立をやりたい』と言ってくる。その都度、福田に取り次いだが、福田は煮え切らない。おれも電話交換手みたいなことをいつまでもやってられない。あなたが一郎と話をしてくれないか」。私は福田さんの了解をとって渡辺さんが指定したパレスホテルに出向いた。そこへ小沢さんもやってきた。小沢さんは張り切っていた」(森喜朗『私の履歴書』日本経済新聞出版社 2013年 251ページ)
自民党は大連立構想を了承したが、民主党の反応は違った。小沢氏の報告に対して、常任幹事会では「政権交代が目的であり、政権に入ることが目的ではない」「国民から見れば大政翼賛会に映る」といった批判が相次ぎ、小沢氏は大連立を断念。福田首相に「この話はなかったことにしよう」と伝えた。大連立構想は1カ月余で霧消した。
そもそも福田、小沢両氏にとって、大連立に込めた狙いに隔たりがあった。福田氏は衆参ねじれで政策が停滞する中、その打開策として大きな与党の固まりをつくりたいという判断をしていた。一方の小沢氏は、自民党との連立で巨大与党をつくった後に安全保障や消費税問題で与党内を分断、再編しようと狙っていた。それは、小沢氏の宿願である自民党分断につながる策略でもあった。二人の溝は埋まることがなかった。
小沢氏は大連立頓挫の責任をとって代表辞任の考えを表明するが、慰留を受けて続投。一転して福田政権批判のトーンを強めていく。政府が提示した日銀総裁人事案が民主党の反対で承認されないなど、政権の混乱は続いた。年が明けて08年4月9日。党首討論が行われ、福田首相はこうぼやいた。「誰と話せば信用できるんですか? 是非教えてほしい。かわいそうなくらい苦労しているんです」。政権の窮状を端的に表す言葉だった。
6月11日には、参院で福田首相の問責決議案が、野党の多数で可決された。法的拘束力はないものの、政権の弱体化を印象づけた。福田氏は8月1日に自民党役員人事と内閣改造に踏み切り、麻生太郎氏を幹事長に起用した。当時、福田氏に直接取材したが、その思いはこうだった。
衆参ねじれの政局が続く中、衆院の解散・総選挙で局面を転換する必要があるが、自分は地味な政治家で、総選挙を仕切るリーダーにはふさわしくない――。
福田氏は、後継首相には麻生氏が適任と判断し、そのための党役員人事・内閣改造だった。
9月1日夜。福田首相は記者会見で「新しい体制の下、政策実現を図らなければならないと判断し、辞任を決意した」と述べた。「国民には他人事のように聞こえた」という質問に、福田氏は、こう切り返した。
「あなたは『他人事のようだ』というが、私は自分自身を客観的に見ることができる。あなたとは違う」
実際、福田氏は、衆参ねじれという政局の厳しさを「客観的に見る」ことで、退陣という選択をしたのだろう。「常識人」と言われてきた福田氏は、波静かな政治情勢であれば立派な政策を遂行できたかもしれない。だが、現実の政局は常識人の手に負えなかった。
1年の首相在任中、福田氏は中国との関係改善を進め、北海道・洞爺湖サミットでは議長として地球温暖化の枠組みづくりを果たした。政府の公文書管理の改善に向けた対策を打ち出すなど、地味ではあるが、重要な問題提起も行った。(続く)
次回は、麻生政権の迷走と政権交代、民主党政権の誕生を描きます。5月11日公開予定。
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