知られざる戦後日本のフリーメイソンの歴史 日本グランド・ロッジ設立を巡る混乱
2019年05月08日
日本のフリーメイソンのこと知ってますか?(上) 知られざる戦後日本におけるフリーメイソンの歴史 河井弥八の入会から進級まで
前回「日本のフリーメイソンのこと知ってますか?(上)」に続き、戦後日本のフリーメイソンの歴史を、河井弥八の日記で見ていきたい。
今回のテーマは、「日本グランド・ロッジ」設立の経緯である。これまで関係者の書籍では日本グランド・ロッジの設立に関して、正確な経過が述べられたことがない。
戦後日本に作られたロッジは、フィリピンのグランド・ロッジのもとに作られていた。そこから日本のロッジが独立して、日本グランド・ロッジを立ち上げることになった。この間、実はかなりの混乱が生じていた。
今回引用するのは、尚友倶楽部/中園裕・内藤一成・村井良太・奈良岡聰智・小宮京編『河井弥八日記 戦後篇4 [昭和三十年 ― 三十二年]』(信山社、2019年)に収録された日記である。
「Col. Riley氏来訪。(略)日本 Free Mason が独立して Lodge を有すべしと力説せらる。依て佐藤尚武氏と相談して強力に推進することを約す」(1956年2月16日)
緑風会の佐藤尚武もフリーメイソンとして河井と行動を共にしていた。2月23日、佐藤と河井が会談し、打ち合わせた。
「佐藤尚武氏来訪。Free Mason 日本 Lodge を独立せしむる Col. Riley 及 Eichorn 氏等の勧告に付協議す。李垠会長が二木某に欺かれて某を Mason 員となし、禍は関東 Lodgeに及ばんとするの怪事あるを報告せらる。依て先づ事の真相を明かにし更に協議することを約す」(2月23日)
注目すべきは、河井日記に登場する二人の人物、李垠と「二木某」である。
一人目の、李垠(イ・ウン)は、朝鮮の李王家出身で、大日本帝国の王族であった(前回記事にも登場)。妻の方子は梨本宮家出身だった。李夫妻は敗戦により日本国籍を喪失し、大韓民国には渡航できず、苦労した。
李がフリーメイソンに入会していたことは、関係者の書籍などでも触れられており(片桐三郎『入門フリーメイスン全史』アムアソシエイツ、2006年、238頁)、有名な事実である。1955年3月1日に設立された関東ロッジにおいて、李垠はロッジを統括するワーシップフル・マスター(初代)を務めた。李を支えるシニア・ウォーデンを村山有、ジュニア・ウォーデンを浅地庄太郎が務めた(Twenteieth Anniversary 1957-1977. Most Worshipful Grand Lodge Free and Accepted Masons of Japan 1977, p.16.)。
二人目の、「二木某」は3月26日の日記に「二木博士」として登場する。おそらく二木秀雄(ふたき・ひでお)のことであろう。医学博士であり、政界との関係では『政界ジープ』を刊行したことで知られる。当時、左翼系の暴露雑誌として知られた『真相』に対抗する、右翼系の暴露雑誌が『政界ジープ』という位置づけだった。
二木は1953年の参議院議員選挙に出馬して落選している。1956年3月には恐喝容疑で『政界ジープ』関係者の逮捕が相次いでおり、4月2日には二木が逮捕された。いわゆる「政界ジープ事件」である。二木と「政界ジープ事件」に関しては、加藤哲郎『「飽食した悪魔」の戦後 七三一部隊と二木秀雄『政界ジープ』』(花伝社、2017年)に詳しい。ただし、加藤の著書には、二木がフリーメイソンと関わっていたという記述は含まれていない。
話を戻すと、李垠と二木、この二人の存在が、グランド・ロッジ設立に向けての日本側の懸念事項であった。日本グランド・ロッジを設立した場合、李垠が最有力ではないもののグランドマスター候補にあがっており、二木が李垠を通じて介入し、問題が発生することが危惧されていた。河井らは李垠のグランドマスター就任を阻止すべく、グランド・ロッジの設立そのものを阻止に動いた。
「五時半公邸にて Free Mason 有志を招き協議をなす。(略)晩餐を呈し約四時間に亘りて、(1)日本の Lodge を独立せしむべきや否や、(2)李王殿下の Masterを如何にするや、特に殿下の紹介にて入会せし二木某の横暴を如何にして措置するや、等に付所見を交換す。其結果(1)Lodge の独立は尚早なり、他年を期すべし、(2)李王殿下の名誉を重んずる為自発的にMasterの辞任を申出らるやう仕向けたし、特に二木某は昇進阻止は勿論Mason Masterより脱退せしむるを要するに一致し、十時過散会す」(3月5日)
「三時 Grand Master William Eichorn 来訪す。(略)E氏は氏も亦 Lodge の独立は尚早なり、少くとも二年後にすることが適当なり(略)と答へたり」(3月6日)
河井らは李垠のマスター引退を企図した。自発的引退が望ましいが、それが望めぬならば、グランドマスターの罷免権により除名することを考慮した旨、記している(3月6日)。日本側の李と二木に対する強硬姿勢を確認したことで、当初グランド・ロッジ設立を促したフィリピン側も説得された。3月6日の会談で、Eichornはそれまでの態度を翻し、グランド・ロッジ設立を「少くとも二年後にすることが適当」と回答した。
最終的に、李と二木の問題は、日本側関係者の間では3月15日に李のマスター引退という方針で決着した。こうして、グランド・ロッジ設立そのものを見送ることによって、李のグランドマスター就任の可能性を消滅させたのである。3月は「政界ジープ事件」が表面化しつつあった時期であり、河井ら日本側の警戒は当然であった。
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