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日本のフリーメイソンのこと知ってますか?(下)

知られざる戦後日本のフリーメイソンの歴史 日本グランド・ロッジ設立を巡る混乱

小宮京 青山学院大学文学部教授

拡大Angel Soler Gollonet/shutterstock.com

河井日記から見るフリーメイソン

 前回「日本のフリーメイソンのこと知ってますか?(上)」に続き、戦後日本のフリーメイソンの歴史を、河井弥八の日記で見ていきたい。

 今回のテーマは、「日本グランド・ロッジ」設立の経緯である。これまで関係者の書籍では日本グランド・ロッジの設立に関して、正確な経過が述べられたことがない。

 戦後日本に作られたロッジは、フィリピンのグランド・ロッジのもとに作られていた。そこから日本のロッジが独立して、日本グランド・ロッジを立ち上げることになった。この間、実はかなりの混乱が生じていた。

 今回引用するのは、尚友倶楽部/中園裕・内藤一成・村井良太・奈良岡聰智・小宮京編『河井弥八日記 戦後篇4 [昭和三十年 ― 三十二年]』(信山社、2019年)に収録された日記である。

注目すべき二人の人物

拡大『河井弥八日記 戦後篇4 [昭和三十年 ― 三十二年]』(信山社、2019年)
 1956(昭和31)年の日本グランド・ロッジ設立関係の「河井日記」の記述を抜粋する。

 「Col. Riley氏来訪。(略)日本 Free Mason が独立して Lodge を有すべしと力説せらる。依て佐藤尚武氏と相談して強力に推進することを約す」(1956年2月16日)

 緑風会の佐藤尚武もフリーメイソンとして河井と行動を共にしていた。2月23日、佐藤と河井が会談し、打ち合わせた。

 「佐藤尚武氏来訪。Free Mason 日本 Lodge を独立せしむる Col. Riley 及 Eichorn 氏等の勧告に付協議す。李垠会長が二木某に欺かれて某を Mason 員となし、禍は関東 Lodgeに及ばんとするの怪事あるを報告せらる。依て先づ事の真相を明かにし更に協議することを約す」(2月23日)

 注目すべきは、河井日記に登場する二人の人物、李垠と「二木某」である。

 一人目の、李垠(イ・ウン)は、朝鮮の李王家出身で、大日本帝国の王族であった(前回記事にも登場)。妻の方子は梨本宮家出身だった。李夫妻は敗戦により日本国籍を喪失し、大韓民国には渡航できず、苦労した。

 李がフリーメイソンに入会していたことは、関係者の書籍などでも触れられており(片桐三郎『入門フリーメイスン全史』アムアソシエイツ、2006年、238頁)、有名な事実である。1955年3月1日に設立された関東ロッジにおいて、李垠はロッジを統括するワーシップフル・マスター(初代)を務めた。李を支えるシニア・ウォーデンを村山有、ジュニア・ウォーデンを浅地庄太郎が務めた(Twenteieth Anniversary 1957-1977. Most Worshipful Grand Lodge Free and Accepted Masons of Japan 1977, p.16.)。

 二人目の、「二木某」は3月26日の日記に「二木博士」として登場する。おそらく二木秀雄(ふたき・ひでお)のことであろう。医学博士であり、政界との関係では『政界ジープ』を刊行したことで知られる。当時、左翼系の暴露雑誌として知られた『真相』に対抗する、右翼系の暴露雑誌が『政界ジープ』という位置づけだった。

 二木は1953年の参議院議員選挙に出馬して落選している。1956年3月には恐喝容疑で『政界ジープ』関係者の逮捕が相次いでおり、4月2日には二木が逮捕された。いわゆる「政界ジープ事件」である。二木と「政界ジープ事件」に関しては、加藤哲郎『「飽食した悪魔」の戦後 七三一部隊と二木秀雄『政界ジープ』』(花伝社、2017年)に詳しい。ただし、加藤の著書には、二木がフリーメイソンと関わっていたという記述は含まれていない。


筆者

小宮京

小宮京(こみや・ひとし) 青山学院大学文学部教授

東京大学法学部卒業。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は日本現代史・政治学。桃山学院大学法学部准教授等を経て現職。著書に『自由民主党の誕生 総裁公選と組織政党論』(木鐸社)、『自民党政治の源流 事前審査制の史的検証』(共著、吉田書店)『山川健次郎日記』(共編著、芙蓉書房出版)、『河井弥八日記 戦後篇1-3』(同、信山社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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