「憲法尊重擁護義務」は平成で終わったのか(下)
尊重擁護義務を不断の努力で果たしてこられた天皇。憲法を裏切った権力と市民
倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)

内外記者団との初の公式会見にのぞむ天皇、皇后両陛下。「私にとって憲法として意識されているのは、日本国憲法」と新しい皇室のあり方について語った=1989年8月4日
「憲法尊重擁護義務」は平成で終わったのか(上) “立憲主義の柔らかいガードレール”が無力化されたわけと日本国憲法の現状を検証する
憲法が要請する「不断の努力」の中身とは
立憲主義の柔らかいガードレールを無力化した平成という時代と日本国憲法について、「『憲法尊重擁護義務』は平成で終わったのか(上)」に引き続き、考えていきたい。
本稿の問題意識にからんで示唆的な議論を提示されているのが、憲法学者の山本龍彦教授である。山本教授は、「『憲法尊重擁護義務』は平成で終わったのか(上)」で触れたアメリカの憲法学者・キャス・サンスティーン前掲書『#リパブリック』(勁草書房 2018)の解説の中で、サンスティーンの議論と日本国憲法との接続可能性について以下のように述べる。
「日本では、個人が政治的主体(「市民」)として「自由」を公共的に行使するという憲法文化は根付いていない可能性があ」り、「消費者的『自由』が憲法上の自由とイコールのものとして観念されがちである」。しかし、このような実態へのカウンターとして、日本国憲法13条の「公共の福祉」や前文の「われらとわれらの子孫のために諸国民の協和による成果と、……自由のもたらす恵沢の確保」といった「崇高な理想と目的」を、「全力を挙げて」達成することを誓うとの文言とともに登場するのが、憲法12条の「不断の努力」である。
この文脈において、日本国憲法もまた「「消費者」的ではない―ある種の「政治的義務」を負った―個人が前提とされ」、「サンスティーンが構想するような、熟議民主主義を採用し、自らと異なる『他者』の見解に触れること、集合的な「共有経験」をもつことを我々に要請している」とも解釈可能だとの見解を示している。
これこそが、日本国憲法が12条の「不断の努力」を通じて、われわれに規範的要請として語り掛ける、憲法からわれわれ個人への「お願い」である。
“立憲主義の柔らかいガードレール”を無力化する「蛸壺化」
すなわち、われわれの自由や権利の最大の敵は、われわれ自身の無気力や自分の好む情報や価値観のみで構成された「同質な小部屋」であり、翻って、憲法の要請する「不断の努力」は一人一人の公共性への“嫌々の”コミットメント及び異質な他者との“無理やり”のふれあいによってこそ満たされ、それこそが、我が国の憲法を生きた規範とする、もう一つの“立憲主義の柔らかいガードレール”なのである。
「不断の努力」とは「運動」のみを指さない。現在の日本社会では、日本国憲法の価値を護るべしという(広く)リベラル勢力においても、自己と異質なものや見たくない不都合なものを排除するという、個別化・純化・統一化の病にかかっていないか。これは、リベラルだけの問題ではなく、憲法の価値を攻撃する勢力もまた、情動的な耳障りの良い情報と価値にしか触れない「繭」の中に閉じこもっている。
この両陣営の「蛸壺(たこつぼ)化」は、その他の多くの市民の「無気力」と「無関心」を生み、無気力の病理はいまや日本社会全体を覆い、我々の自由や民主主義を自ら後退・無力化させる時限爆弾となっている。このことと国家権力や個人にとっての“立憲主義の柔らかいガードレール”の無力化は無関係ではないどころか、論理的に必然な関係にあるだろう。
以上のとおり、我々が真に多様で異質な「他者」にコミットするという「不断の努力」(12条)を通した日本国憲法の規範的要請に応え、公共性への無関心や無気力と決別することによってのみ、憲法に息吹が吹き込まれる。これに呼応して、「法尊重擁護義務」(99条)が生きた規範として再定位されるのではないだろうか。
このわれわれ個人個人と憲法と国家権力の間の相互的なダイナミックと緊張関係の連動自体が、憲法の明文では表現しきれない、“立憲主義の柔らかいガードレール”であり、日本国憲法が我々に囁(ささや)く核心的メッセージであり、暗闇を照らすヒントなのである。
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。