(9)「陸山会事件」は単なる記載ミス。検察捜査の跡に政治改革の残骸だけが残った
2019年05月13日
一体、この日本はいつになったらまともな国になるのだろうか。そして国民はいつになったら事実に対して曇りのない目を開き、その事実に基づいてまっすぐに考えをめぐらすことができるのだろうか。
この連載の主人公、小沢一郎は憎しみに近い敵意に満ちた曇りだらけの目に囲まれ、政治人生の頂点に近い3年間をほとんど空費した。日本政治の改革にかける小沢はそれでもおのれの使命感を捨てず、3度目の政権交代に向けて異様なほどの闘志を燃やしている。
しかし、小沢の目指した改革が中途半端に終わらざるをえなかったために、国民が被った損害は限りなく大きい。
小沢と国民の行く手を阻んだものは一体どんな姿をしていたのか。いま冷静になって顧みてみれば信じがたいことだが、そこには何もない。ただ、張り子の虎のような幻だけがおどろおどろしく踊り、小さい自己保身と上昇志向だけを頼りとする無知な人々が口々に騒ぎ立てていただけのことだった。
前回の小沢一郎戦記『小沢一郎が構想した予算編成』では、小沢が事実上の国家戦略局担当として変則的な形ながらも政治主導の国家予算編成を成し遂げていた事実を記した。いったんは断念しかけた政治主導だったが、小沢の識見と人脈のおかげで、当初構想されていた形とは違うものの、貴重な政治主導による画期的な予算編成だった。
その時期は2009年12月。しかし、年が明けた2010年1月15日、ひとりの国会議員が予想外の悲劇に襲われた。東京地方検察庁の特捜部に前々日から呼び出しを受け、この日逮捕されてしまったのだ。
「最初、逮捕された時、何だろうと思ったんですね」
この時国会議員だった石川知裕は、私のインタビューに答え、最初の感想を率直にこう話した。
私が石川から話を聞いたのは北海道知事選よりかなり前のことになるが、細かいことにまで立ち至った私の質問にひとつひとつ丁寧に答え、インタビューは3時間近くに及んだ。
インタビューの前にはいわゆる「陸山会事件」に関する本を10冊以上読み込み、補足取材もしていたため、質問と答えはかなり突っ込んだものになったと私は思う。答えにくい質問にも懸命に答えようとする姿勢は、石川本来の誠実な人柄をうかがわせた。
この石川の話を中心に、「陸山会事件」とはどんなことだったのか、まずは事実だけを淡々と記しておこう。
北海道の真ん中近くにある旧足寄町出身の石川は函館ラ・サール高校時代、一時期医師になることを目指していたが、国際政治にも関心を持つようになり、進んでいく足寄町の過疎化問題を考え政治の道を志すようになった。
早大の政治サークル「鵬志会」に入り、2年生になった1993年に細川護煕連立政権が誕生した。その中心で政権を支える小沢に感心を持ち、「小沢一郎研究会」も自分で立ち上げた。留年が決まっていた4年生の時、小沢の秘書だった南裕史に声をかけられ、そのまま小沢事務所に入っていった。
陸山会の経理処理のシステムを作ったのがこの南だった。石川の推測では、小沢の考えも十分に踏まえて、間違いの起こらないように厳格な処理システムを考案した。後ほど説明するが、確かに厳格で透明な方法だった。南の後、このシステムを引き継いだのは樋高剛で、さらに樋高を継いだのが石川だった。
2003年9月に小沢が率いる自由党と菅直人が代表の民主党が合併、同12月に小沢が合併民主党の代表代行に就いて迎えた翌2004年から、小沢事務所は増える秘書で膨れ上がり始めた。石川の記憶では2004年~2010年くらいまでが多く、最大の時は20人近かった。かつて取材した私も記憶しているが、民主党政権を目指していた小沢は、初めて立候補した新人のために自ら秘書を派遣し選挙運動を指導していた。
「政治家にとって秘書の数は支持を広げるのと比例しています。そもそも政治資金を集めるのは秘書を雇うためだと言っても過言ではないです。政治団体の人件費の割合はもう半分以上だと思います。その支出が多いのは小沢さんにとっては政権を取るために当たり前のことだったと言えるんです」
小沢は韓国人や台湾人、イギリス人の秘書も雇っていた。政権を取った後の通訳として必要だろうという小沢の考えだったが、非常に優秀な人材だったという。
石川のざっとした記憶では、これらの外国人秘書も含めて秘書一人の平均年収は300万円から350万円。これに住居費や光熱費、食事代などをプラスして一人当たり500万円近い人件費となる。最大20人とすれば、毎年の経費2億円のうち半分近い1億円弱が人件費だった。
このため、収入の多い年は確かにあったが、均せばそれほど大きい余裕があったわけではない。
このような秘書の増加に対応するために、この際、個人個人が各部屋に分かれたアパート形式の寮を建てた方がいい。小沢の自宅に近い世田谷区深沢に土地を求めたのは、これが発端だった。
土地代金は3億4000万円余り。経理担当の石川は小沢に相談して、小沢から陸山会に4億円を借り受けた。ここで南らが考えた従来の経理システムだと、この4億円を銀行の定期預金に入れ、陸山会の代表である小沢が改めて銀行から4億円の預金担保融資を受けることにしていた。あとは、陸山会代表の小沢がこの融資金の中から不動産代金を支払って終わりである。
なぜこのような手数をかけるかと言うと、陸山会が買う秘書の住居用土地は小沢個人のものではなく、あくまで陸山会という政治団体のものだからである。ここのところは会社員や公務員などにはわかりづらいが、個人事業主ならピンと来るという。あくまでプライベートと会社の経理は分けておきたいという潔癖さから来ている。
特に小沢の場合は、政治家個人としては「小沢一郎」、陸山会代表としては「小澤一郎」と漢字の字体まで変えている。ここに名前を挙げることはあえてしないが、政治家の中には政治家個人と政治団体代表が同一人物であることを隠れ蓑にして政治資金で個人住宅などを買っている者もいるという。つまり、字体まで変えて預金担保融資を受ける小沢の手法は、政治家の中では珍しいほどに清潔で潔癖なものなのだ。
しかし、石川がこの取引の経理を担当した2004年10月は都合の悪い事情がいくつか重なった。
ひとつは、石川自身がこの手法にそれほど深くは習熟しておらず、前任者の樋高に教えを請いに行ったが、国会議員の樋高も多忙のためあまり時間が取れなかった。
二つ目には、このころ石川は民主党の候補者公募に応募することにしており、実を言えば小沢自身の反対に遭っていた。小沢にしてみれば、新人に対して経理システムをまた一から教えなければならず、政権交代を目指して忙殺されている折り、そういうことは避けたかった。
そして三つ目は、仲介に入った不動産会社の度重なる入金催促だった。このため、石川は10月29日午前、預金担保融資を経ることなく、小沢から陸山会が借りた資金の中から直接3億4000万円余りを不動産会社に支払った。石川が陸山会の預金などをかき集め、りそな銀行から4億円の預金担保融資を受けることができたのは同日の午後になってしまった。
「小沢さんは基本的にちゃんとやれよということしか言わない人ですから、具体的にりそなでこうやってという指示は受けていません。ただ定期預金をする時に印鑑が必要ですから、こういうようにしますと概要だけ説明して、押してもらいました」
石川をはじめとする関係者が全員多忙の時、おまけに不動産会社の支払い催促が重なって、預金担保融資と支払いの手順が狂ってしまった。後に検察はこの部分に不自然さを見い出すが、もうひとつ、樋高のアドバイスもあって、土地入手の日付を実際の代金支払いの日ではなく本登記の2005年1月にしたことも検察の追及するところとなった。
しかし、前に説明したように預金担保融資は何ら珍しいものではない。土地入手の日付にしても、実際に代金を支払った日付にすべきだという現金主義と、本登記の日まで待つべきだとする考え方と二つある。石川は不動産会社の司法書士にまで相談して後者を選択している。
いずれにしても、問題は単なる政治資金収支報告書の書き方の相違にあるだけで、現職の国会議員を逮捕して、さらに政権党の前幹事長を強制起訴するほどの話ではまったくない。
しかしそれにもかかわらず、検察は執拗に事件化に執着した。なぜだろうか。
その最大の要因は、小沢が最初に陸山会に貸し付けた4億円の出所に疑問を抱いたからだ。政治資金収支報告書の記載ミスや認識の相違などで国会議員に対してここまで執拗な強制捜査を続けることができないことは検察もわかっている。この問題に関しては検察庁内部でも捜査積極派と消極派に分かれていたことが、検察に強いとされる村山治の著作『小沢一郎vs.特捜検察20年戦争』(朝日新聞出版)に書かれている。
積極派の最右翼は実際に捜査に当たった東京地検特捜部だった。
その動機の大半は、事の経緯を丹念にたどる限り、正義や社会的使命といったところにはない。検察の暴走を正そうと法相時代に指揮権発動まで考えた検察出身の現立憲民主党参院議員、小川敏夫の次の言葉が動機の要点を言い当てているだろう(『指揮権発動 検察の正義は失われた』)。
検察の世界では、特捜部はエリートコースである。/検察トップの検事総長が何代も輩出している。そうしたトップに立つ検事は「誰々を挙げた検事」だとか「何々事件を仕上げた検事」という勲章をぶらさげている。仕上げた相手が大物であるほど勲章も大きい。/金メダルが閣僚、銀メダルが国会議員か都道府県知事、銅メダルが事務次官などキャリア官僚――(略)小沢氏は、政界における実力と存在感からいって、優に金メダル級である。
しかし、金メダルがそれほど欲しいからと言って、確証もなしに強制捜査に着手することはできない。検察内部でメダルに逸る特捜部を脇目に上層部が消極的だったのは事態を冷静に捉えていたからだ。実際にあったのはせいぜい収支報告書の虚偽記載であり、石川ら秘書の在宅起訴で終わりの事件だろう、と踏んでいた。
それでも石川をはじめとする強制捜査を認めたのは、前記村山の著書によると当時の特捜部長、佐久間達哉ら「現場のガス抜き」だった。
「ガス抜き」で強制捜査を受ける側はたまったものではないが、小沢は、石川が逮捕されたほぼ1週間後の1月23日に検察の事情聴取に応じ、聴取後記者会見を開いた。会見でまず小沢が明らかにしたのは4億円の原資だった。
原資は、まず①東京都文京区の湯島にあった自宅を売却して深沢の自宅を建設した時の差額の2億円、②銀行の家族名義の口座から引き出した3億円、③別の銀行の家族名義の口座から引き出した6000万円。これらを赤坂の事務所の金庫に保管していたが、2004年10月には金庫に4億数千万円が残っており、この中から4億円を陸山会に貸し付けた。
疑いをかけられた者がここまで具体的に説明した場合、本来は捜査は終わるはずだったが、特捜部は金メダルに固執した。特捜部は脱税で服役中の水谷建設元会長の水谷功に目をつけ、建設業界の裏事情を聞き出した。さらに同社の社長、川村尚らから事情聴取し、岩手県奥州市の胆沢ダム建設工事の下請け受注に絡んで赤坂の全日空ホテルで石川に5000万円を手渡したという供述を得た。特捜部はこの5000万円が小沢の4億円の原資の一部だと見なした。
これが事実なら政治資金収支報告書の記載ミスも単なるミスではなく、悪質な隠蔽工作となる。しかし、小沢はもちろん石川も最初から最後まで否認を貫いた。実現しなかったが、石川は、川村と並んでの対質尋問まで要求した。特捜部はむしろこの対質尋問を恐れているように見えた。
特捜部は最後までこの川村の供述を裏付けることができなかった。検察審査会への捜査報告書など、その後次々に明らかになる特捜部の極めてずさんな捜査資料の作成事情を見ると、この川村供述も巷間様々に言われているように信頼性が薄い。
最終的に検察は小沢を起訴できず、舞台は検察審査会に移った。その検審への捜査報告書を作成するために、特捜部は再度石川を任意で呼び出した。石川はこの時、個人的に強く支援してくれる佐藤優に知恵を授けられ、内密にICレコーダーを忍ばせていた。
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