小沢一郎の改革を妨げた検察の根拠なき捜査
(9)「陸山会事件」は単なる記載ミス。検察捜査の跡に政治改革の残骸だけが残った
佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長
石川知裕が明かす小沢事務所の当時の事情

北海道知事選への出馬を表明した元衆院議員の石川知裕氏=2019年2月8日、札幌市中央区
石川は早稲田大学卒業後に小沢の私設秘書となり、その後国会議員に当選したが、秘書時代の経理処理をめぐって政治資金規正法違反に問われた。結果的には、検察が根拠なく無謀にも狙いをつけた小沢は無罪確定。石川は、禁錮2年執行猶予3年の有罪判決が確定したが、実態としては単なる形式犯、私が法務に詳しい金融関係者や経理処理に詳しい会社経営者に確認したところでは、とても罪に問えるようなものではなかった。
北海道の真ん中近くにある旧足寄町出身の石川は函館ラ・サール高校時代、一時期医師になることを目指していたが、国際政治にも関心を持つようになり、進んでいく足寄町の過疎化問題を考え政治の道を志すようになった。
早大の政治サークル「鵬志会」に入り、2年生になった1993年に細川護煕連立政権が誕生した。その中心で政権を支える小沢に感心を持ち、「小沢一郎研究会」も自分で立ち上げた。留年が決まっていた4年生の時、小沢の秘書だった南裕史に声をかけられ、そのまま小沢事務所に入っていった。
陸山会の経理処理のシステムを作ったのがこの南だった。石川の推測では、小沢の考えも十分に踏まえて、間違いの起こらないように厳格な処理システムを考案した。後ほど説明するが、確かに厳格で透明な方法だった。南の後、このシステムを引き継いだのは樋高剛で、さらに樋高を継いだのが石川だった。
2003年9月に小沢が率いる自由党と菅直人が代表の民主党が合併、同12月に小沢が合併民主党の代表代行に就いて迎えた翌2004年から、小沢事務所は増える秘書で膨れ上がり始めた。石川の記憶では2004年~2010年くらいまでが多く、最大の時は20人近かった。かつて取材した私も記憶しているが、民主党政権を目指していた小沢は、初めて立候補した新人のために自ら秘書を派遣し選挙運動を指導していた。
「政治家にとって秘書の数は支持を広げるのと比例しています。そもそも政治資金を集めるのは秘書を雇うためだと言っても過言ではないです。政治団体の人件費の割合はもう半分以上だと思います。その支出が多いのは小沢さんにとっては政権を取るために当たり前のことだったと言えるんです」
小沢は韓国人や台湾人、イギリス人の秘書も雇っていた。政権を取った後の通訳として必要だろうという小沢の考えだったが、非常に優秀な人材だったという。
石川のざっとした記憶では、これらの外国人秘書も含めて秘書一人の平均年収は300万円から350万円。これに住居費や光熱費、食事代などをプラスして一人当たり500万円近い人件費となる。最大20人とすれば、毎年の経費2億円のうち半分近い1億円弱が人件費だった。
このため、収入の多い年は確かにあったが、均せばそれほど大きい余裕があったわけではない。