元号を否定しない私が令和の使用を拒否するワケ
平成の危機的状況は何も変わらないのに「バンザイ!」を叫ぶお手軽な社会でいいのか
斎藤貴男 ジャーナリスト

新天皇陛下の即位を伝える号外を求める人たち=2019年5月1日、東京都千代田区
「令和バンザイ!」テレビも新聞も
テレビも新聞も「令和バンザイ!」の大合唱だ。実際、4月30日の深夜は全国各地でカウントダウンのお祭り騒ぎ。何かと言えば「平成最後の「令和最初の」の形容が連発され、“新時代”なる認識が喧伝(けんでん)され続けたこの間の日々を、改めて思う。
私は呆れ果てている。元号廃止を叫びたいのではない。いや、アメリカには存在しないものだという理由だけでも、私は元号を否定したくない、むしろこの制度を維持したいと努めている立場だと書いたら、読者は意外だと受け止められるだろうか。
ただ、世の中総出で“新しい時代”が叫ばれ、手放しで慶(よろこ)ばない者はいないかのように演出されていく現実が情けなく、悲しい。なぜなら新時代など訪れていないからだ。
元号は変わっても危機的状況は変わらず
元号が変わったことは事実でも、そんなものは日本国内だけの取り決め以上でも以下でもなく、第一、私たちが置かれている危機的状況が、これっぽっちも改められたわけではないのである。
沖縄の米軍基地。徹底的な大企業中心社会。“働き方改革”“一億総活躍プラン”“女性の活躍促進”“人づくり革命”等々、人間を経済成長の道具として動員していく国策の数々。権力の正当性が疑われるモリ・カケ事件。国の存立を左右しかねない統計偽装。消費税増税。被曝者たちの人生を狂わせ続けている福島第一原発事故と、それでも止まない原発推進。
対米隷属と対(つい)をなす憲法改正スケジュール。戦争の可能性。ネトウヨ差別主義者らの跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)国民をどこまで嘲笑できるかを競い合ってでもいるかのように、暴言しか吐けない与党政治家たち。トランプ大統領の恐怖。安倍晋三首相・・・。
ありとあらゆる困難のどれもこれもが、何の問題もないことにされていく。チャラにされる。こうまでお手軽な社会が、この世にあってよいものなのだろうか。