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中島岳志の「野党を読む」(1)枝野幸男

右派イデオロギーとは異なる「保守」にこだわる原点は、新党さきがけにある

中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授

昨年9月から連載してきた「中島岳志の自民党を読む」に続き、今回から野党編が始まります。これまでの連載に大幅加筆したものは、スタンドブックスから『自民党 価値とリスクのマトリクス』として出版されます。5月31日発売予定です。

2017衆院選。インタビューに答える立憲民主党の枝野幸男代表=2017年10月22日

リベラルな保守

 さて、今回取り上げるのは枝野幸男さん。2017年10月に立憲民主党を立ち上げ、代表となりました。衆議院議員選挙を目前とする中で「希望の党」が結成され、民進党の多くの議員が合流する中、この流れから「排除」された議員をまとめ、大きな期待を集めました。

 選挙結果は、立憲民主党が野党第一党を獲得。枝野さんは、政権交代が起きた時の首相候補NO.1に躍り出ました。

 選挙中、枝野さんは「まっとうな政治」「右か左かではなく前へ」「リベラルな保守」などのフレーズを多用しました。自らの立ち位置を「革新」ではなく「保守」と位置付け、「パターナリズム」に対する「リベラリズム」を重視しました。選挙後のインタビューでは、次のように言っています。

 私自身は宏池会の思想的な流れにある。あるいは石橋湛山(第55代首相)の流れにあると、自分は思っています。(「枝野幸男 立憲民主党 代表 独占インタビュー 私が菅官房長官を高く評価する理由」『プレジデント』2018年1月15日号)

 この枝野さんの立場を「意外」と感じた人が多かったようですが、彼の政治家としての歩みを見ていくと、それが「当然」であることが理解できます。

 以下では、枝野さんがこれまで書いてきた著書や論考、インタビュー、対談などを整理しながら、その歩みに即して理念やヴィジョンを見ていきたいと思います。

与党議員として政治家人生をスタート

初登院し、国会議事堂を背にカメラにポーズをとるた日本新党の議員たち。枝野氏の姿も=1993年8月5日
 枝野さんの政治家としてのデビューは、細川護煕さんが立ち上げた日本新党です。1993年に日本新党の候補者公募に合格。落下傘候補として旧埼玉5区から立候補し、当選しました。

 枝野幸男という政治家を考える時に重要なのは、彼が政治家としてのスタートを与党議員として迎えたことです。

 1993年の衆議院選挙の結果、細川内閣が誕生し、自民党が下野しました。枝野さんは与党議員として、翌年成立した製造物責任法(PL法)の立案などに関わります。具体的な政策を実現するプロセスをはじめから経験したことで、旧社会党系の「野党議員」とは異なったマインドを持つことになります。
PL法の立案について、次のように述べています。

 この法律は政府提案の法律でしたが、実質的には議員立法だったといってよく、しかも本格的に議員たちが一からつくったという点では画期的な作り方をしたと思っています。
 この法律は経済企画庁が担当していたのですが、役人を呼んで、一条一条すべてを議員たちが集まってチェックし、書き直していったのです。(『それでも政治が変えられる-市民派若手議員の奮戦記』マネジメント社、1998年)

簗瀬進氏(右端)の応援に枝野幸男・民主党幹事長も駆けつけた=2010年6月13日、宇都宮市
 枝野さんが頼りにしたのは、日本新党と衆議院内会派を組んだ新党さきがけの先輩議員たちでした。

 新党さきがけを結成したのは、自民党の中堅・若手議員だった武村正義、田中秀征、園田博之、鳩山由紀夫、井出正一、簗瀬進といった政治家たちでした。彼らの多くは自民党の政治腐敗を批判し、リベラル保守という立場から政治改革を志向した「ユートピア政治研究会」のメンバーでした。

 中でも慕ったのは、同じ高校出身の簗瀬進さんでした。枝野さんの政治家としての原点は、新党さきがけとの出会いにあります。ここで「リベラルな保守」という立ち位置を獲得し、政策実現を志向する与党議員としてのマインドを確立しました。

 これが立憲民主党結成時の言葉に繋がっています。

小沢一郎への強烈な不信

 一方、枝野さんが強い不信と違和感を持ったのが、小沢一郎という政治家でした。

 小沢さんは細川内閣の立役者で、当時、強い政治力を誇示していました。彼が出版した『日本改造計画』はベストセラーになり、政治改革の機運を生み出しました。

 枝野さんは新生党の山口敏夫さんからの誘いで、小沢さんと食事をしました。当時の小沢さんにとって、日本新党の若手議員を取り込むことは、自らの政治勢力拡大にとって重要な意味を持っていました。

 枝野さんは小沢さんの本について反論があり、身のある対話を期待して出かけていきました。しかし、実際の小沢さんは、議論に「まったく乗ってきません」。終始「選挙と金」の話で、「小沢氏についていけば、次の選挙では金も票も面倒みる、とうようなことばかりを言っていました」。

 枝野さんは言います。

 (小沢氏には)政治家はすべて金と票を目の前にぶら下げれば、それで動くという先入観があるようでした。
 そういう人もいるでしょうが、それではいけないんだ、というのが日本新党の理念だったはずです。ところが、小沢氏は改革といいながら、どうも本気で改革しようという気はないようでした。政策でも官僚に依存し、資金面や選挙ではゼネコンに依存し、という自民党の悪い体質そのままの人なんだ、と改めて私は確信しました。
 改革を言っていますが、それは権力を握るための道具でしかない。本当に改革する気はないのではないか。これは今も変わらない、私の小沢氏への評価です。(前掲書)

 この文章が書かれたのは1998年です。この小沢不信は、枝野さんの政治家人生を考える際、重要な意味を持ちます。

衆院本会議に臨む民主党・小沢一郎幹事長(奥右)と枝野幸男行政刷新担当相(手前右)=2010年2月18日
 のちに枝野さんは、民主党と自由党の合併により小沢さんと同じ党のメンバーとなりますが、小沢さんが党の主導権を握ると、中枢から露骨に外されました。今日に至るまで、二人の反目は長く続くことになりますが、その原点には小沢さんの政治観に対する強烈な批判と不信があります。この点は重要です。単なる人間の好き嫌いの問題ではありません。

 細川内閣は、消費税率を7%に引き上げようとした「国民福祉税構想」騒動によって求心力を失い、細川さん自身の佐川急便グループからの借入金処理問題によって瓦解します。この過程で小沢さんと武村正義さんの対立が鮮明になり、細川さんは小沢さん側について、武村さんを排除するようになります。その結果、日本新党の中に分断が生じ、のちの新進党に合流するグループと、新党さきがけに合流するグループに分かれていきます。

 枝野さんは新党さきがけを選択します。その結果、羽田内閣を経て誕生した村山内閣に、新党さきがけのメンバーとして参画することになります。

 枝野さんは、党の政策調査会副会長に就任しますが、この時の会長が菅直人さんでした。そして、この二人の関係が、与党のなかで大きな政治的成果を生み出すことになります。

薬害エイズ問題の劇的な政治決着が原点に

 きっかけは、一本の電話でした。枝野さんは議員になる前、弁護士として活躍していましたが、司法修習の同期だった人権派弁護士から、薬害エイズ裁判についての相談を受けました。

 この時、裁判所の判断が迫っており、和解勧告が出されることが想定されていました。ポイントは、国が上告せず、勧告を受け入れるか否かにありました。上告すれば訴訟が長引き、その間に患者たちの命が失われる可能性がありました。

 「どう考えても国に責任がある」と考えた枝野さんは、薬害エイズ問題に取り組む決意をします。

 村山内閣当時の厚生労働大臣は、新党さきがけの井出正一さんでしたが、枝野さんは厚生省の官僚には内密に、被害者と井出厚相の面会を実現します。このとき被害者代表として面会したのが、のちに立憲民主党の議員となる川田龍平さんでした。

 その後、村山内閣が改造され、厚生大臣は社会党の森井忠良さんになりました。裁判所が予想通り和解勧告を出すと、枝野さんは衆議院厚生委員会で大臣を追及しました。国は和解勧告に応じるのか否か。同じ与党議員でありながら、質問はヒートアップし、本題に応えようとしない大臣に対して「役人のつくった答弁を棒読みするのだったら、政治家が大臣をやる必要はないのですよ」と迫りました。

 この直後、枝野さんは上司の菅さんから呼び出されます。菅さんは、「生半可な覚悟じゃできないぞ」と枝野さんの「本気度」を確かめたうえで、二人を中核とするプロジェクトチームを立ち上げました。

 そして、1996年1月、村山首相が辞任し、橋本龍太郎さんが総理大臣に指名されると、菅さんが厚生大臣に抜擢されました。菅さんは薬害エイズ問題に切り込み、厳しい姿勢で官僚を追従した結果、「ない」とされた資料が厚生省内で発見されます。そして、菅厚相が国の責任を認めて謝辞し、和解勧告に応じるに至りました。

 この劇的な政治決着が、与党政治家としての枝野さんの原点にあります。

薬害エイズ問題の全面解決を求め厚生省前に座り込んだ東京、大阪のHIV訴訟の原告代表ら(手前)と会談する菅直人厚相(左から2人目)。右端が枝野氏。

 橋本内閣では、与党メンバーとして行政改革に取り組みました。

 枝野さんは連立与党の行政改革プロジェクトチーム座長となり、公務員制度改革の座長私案を提出します。そこでは国家公務員人事の一括採用や天下り規制が提案されました。

 『週刊東洋経済』1996年7月13日号には、若き日の枝野さんのインタビューが掲載されていますが、そのタイトルは「官僚の本籍地は省庁でなく国だ」です。採用された省庁を「本籍地」と捉える意識をなくし、縦割り行政の弊害を取り除くために、公務員の一括採用こそが重要だと訴えています。

 また、この時期には公益法人の実態を調査し、天下りの弊害を追及しました。『月刊公益法人』1996年6月号には水野清、山元勉両氏と共に与党行政改革プロジェクトチーム座長として出した「公益法人の運営等に関する提言」が掲載されていますが、ここでは公益法人が行革や規制緩和の「隠れた障壁」となっていることが厳しく追及され、事業が民業を圧迫するだけでなく、公益性に根本的な疑問がある法人があることが糾弾されています。

 この取り組みは、枝野さんの行政改革に対する姿勢を決定づけ、民主党政権の際の事業仕分けに繋がっていきます。

 しかし、与党生活はここで終了することになります。

長い野党生活、自民党との差異化に悩む

 衆議院選挙が迫る中、鳩山由紀夫さんが中心となって民主党が立ち上がり、枝野さんは新党に加わることになりました。この時、鳩山による「排除の論理」が話題となり、村山さん、武村さん、土井たか子さんが民主党に参加することを拒否されました。

 ここから枝野さんにとって長い(約13年間の)野党生活が始まります。

 民主党は当初、共同代表制をとり、菅さんが政務担当、鳩山さんが党務を担当しました。しかし、1997年9月には共同代表制を廃止し、菅さんが代表に就任しました。枝野さんはこの時、33歳の若さで政調会長に抜擢されます。

 その後、民主党は政権交代可能な二大政党を目指し、拡大路線をとります。1998年4月には羽田孜さんをはじめとする保守系議員(民政党)と旧民社党(新党友愛)メンバーが加入することで、構成員が増加すると同時に、包括政党化することで党是があいまいになっていきました。

 その中でも、枝野さんは与党マインドを維持したまま、石原伸晃さんをはじめとする当時の自民党改革派と協力しつつ、「政策新人類」の代表として活躍しました。

 その成果が、小渕内閣の時につくられた金融再生法案でした。これは当時の金融危機に対し、「一時国有化という手法で、銀行破綻の際の連鎖倒産を防止しようとの目的で立案」されたもので、実質的には野党案の丸のみでした。

 立案の中心にいた枝野さんは、次のように説明しています。

 一時国有化は、国の信用と責任によって「健全な」借り手に対する融資業務を継続する一方、経営陣は総退陣し、株も紙切れになるという意味で、市場原理に基づく関係者の責任は、果たされる仕組みとなっている。(「金融は再生するか?」『全逓調査時報』 1999年4月号)

 この法案は、金融関係者に「市場原理」に基づく責任を取らせることを主眼としており、「平成の借金王」と自嘲した小渕首相のばらまき政策に対する批判を含んでいました。

 小渕内閣では公明党との連立が成立し、民主党は野党として対決姿勢を鮮明にしていきます。しかし、一方で橋本行革の一端を担ってきた枝野さんは、自民党との差異化に悩み、苦心します。

 1999年9月には、率直に次のように述べています。

 民主党と自民党との違いは何かと言われたら、構造改革を急ぐのかのんびりやるかという違いだけだと思います。(枝野幸男、元木昌彦「元木昌彦のメディアを考える旅(18)枝野幸男(民主党衆議院議員)―政治活動に使えるインターネット マスコミに中立公正など求めない」『エルネオス』1999年9月号)

 ここで枝野さんが目を向けたのが、価値観の問題でした。彼は小渕内閣がパターナルな性格を持っていることに注目し、リベラルなリアリズムを模索していきます。

 1999年8月に成立した「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」(通称、盗聴法)について、当時次のように述べています。

 私は、盗聴制度そのものを全面的に否定する立場ではありません。濫用防止のための制度的な歯止めをかけられるのであれば、必要最小限の盗聴を容認する立場です。政府案や、その自自公共同修正案では、この濫用防止のための制度的な歯止めが不十分であることから、強く反対したのです。(「少数者の軽視は社会の危機」『世界』1999年11月号)

 また、同時期に成立した「国旗及び国歌に関する法律」(通称、国旗国歌法)についても最終的に反対しました。枝野さんは、日の丸・君が代に反対なのではなく、法律で定めることに反対という立場をとります。日の丸を国旗とし、君が代を国歌とするのはあくまでも不文律の慣習法のレベルにとどめておくべきであり、法律で定めることによって、逆にその時々の政権が変えることができてしまう不安定性が生じるというのが理由でした。

 他にも児童買春・ポルノ問題に積極的に取り組み、1998年に成立した「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律」(通称、児童買春・児童ポルノ禁止法)に関わりました。

 枝野さんが小渕内閣に反発を強めたのは、強引な議会運営に対してでした。彼は言います。

 強引な議会運営には、まさに民主主義の根幹にかかわる重大な問題をはらんでいます。議論を省略し、「多数派ならばなんでもできる」という考え方に立つことは、結果的に少数者・弱者の人権を軽視する方向につながることを否定できません。
 (中略)民主主義と多数決が同義語であるならば、数年に一度ずつ選挙を実施して、その多数派がすべてを決定すれば良いことになり、議会という存在が意味を持たなくなります。(「少数者の軽視は社会の危機」『世界』1999年11月号)

 この「民主主義は単なる多数決ではない」という主張は、現在の安倍内閣にも向けられる枝野さんの強い持論です。

経済は小さな政府、社会保障は大きな政府

 この時期、枝野さんは自らのヴィジョンと展望を整理する作業に着手しています。その成果として出されたのが「米国との知恵競べ」(『Voice』1999年11月号)です。

 また、この頃の考えが記録された講演録が「私たちの目指す21世紀の日本--第8回全専従者会議講演」(『全逓調査時報』1999年12月号)として残されています。

 論考「米国との知恵競べ」では、「キャッチアップ型社会」はもう限界であるという認識が繰り返し説かれています。枝野さんの認識では、当時の日本は「たんに米国の真似をしていれば経済成長できた時代は終り、日本独自の知恵、独創性が求められる時代に入って」います。この時代に対応するためには、新たなシステムへの転換が必要で、その際には「多様性や独創性がキーワードとなる」と言います。

 中央集権で、一握りの官僚が資本と人材をコントロールする経済では、独創性ある技術や経営は生まれようがない。地方分権によって、地域ごとの個性を生かした競争を促すことは、政治の側面だけでなく、経済の側面からも必然である。規制緩和は、既存産業には打撃を与えるかもしれないが、独創性・個性を大切にするために、不可欠である。(中略)大局的な歴史観と、短期的な問題に振り回されず、有権者に向って「未来のために、共に痛みに耐えよう」と呼びかけることのできる勇気こそが、いま、求められる政治そのものではないであろうか。

 枝野さんが強調するのは、中央集権型行政の解体です。権限はできるだけ地方に「分権」し、それぞれ地域の多様性や独創性が重んじられるようにしなければならないと訴えます。

 この転換を生み出すためには、既得権益の解体が必要となります。自民党は公共工事のばらまきによって集票を行ってきたため、既得権益構造に依存しています。民主党はこの構造から自由であるがゆえに、新しい時代を切り開くことができる。枝野さんが、民主党に見出した自民党との差異は、「反既得権益」という姿勢でした。

 枝野さんの姿勢は、時に新自由主義に接近していきます。行政が民間に対して行うコントロールをできる限り小さくし、徹底した規制緩和によって既得権の解体を推進するべきと訴えます。

 この時期の枝野さんが強調していたのは「自立」。政官財の癒着構造の打破することで「お上」から自立し、自分たちで創意工夫する体制を作らなければならないと言います。従来の自民党の経済政策は自由主義ではなく、パターナルな護送船団方式でした。これを解体し、自民党とは異なる「自由と安心」の政策を打ち立てることが民主党の使命だと訴えます。

 ここで出てきたのが「チャレンジ」と「セーフティネット」というコンセプト。ベンチャーなどの思い切ったチャレンジを促進すると同時に、失敗した時にはセーフティネットで支え、再チャレンジを促すことこそが必要だと説きます。

 我々は経済に余り金を使わない。自由にやらせる。そのかわり最悪、失敗した人たちをしっかり守る。失敗した時でも大丈夫だよねという安心感を多くの人達に与える。これがある意味で自民党と民主党の、敢えて政策のところで違いを言えば、大きな違いなんじゃないだろうかなというふうに思っています。(「私たちの目指す21世紀の日本--第8回全専従者会議講演」)

 ここから導かれたのが「経済は小さな政府、そのかわりに社会保障はより大きな政府」というヴィジョンでした。規制緩和や行革は進める。公共工事は縮小していく。しかし、社会保障は拡大する。この「自立」と「セーフティネット」の組み合わせこそが、これからのヴィジョンだと訴えました。

 しかし、次のような悩みも率直に吐露しています。

 民主党にとって難しいのは、日本はレーガン、サッチャー的な自由主義革命をやっていないこと。その後のセーフティネットをつくるのがブレア英政権であって、後段の話だけしても説得力がないから、民主党は一度、自由党にならなきゃいけない(笑い)。民主党政権最初の二年間で自由党(的政策)をやって、後の二年で民主党(的政策)をやることになるわけ。悩ましいですよ。(野田聖子、石原伸晃、枝野幸男、達増拓也「目指せ40代総理 インターネット世代代議士ぶっちゃけ座談会」『週刊朝日』2000年6月2日号)

小泉政権の新自由主義とどう差異化するのか

 枝野さんにとって厄介だったのは、小渕内閣、森内閣に続いて小泉内閣が誕生したことでした。小泉首相は「官から民へ」「規制緩和」を掲げ、「古い自民党をぶっ壊す」と叫びながら構造改革を進めました。この政策新人類のお株を奪う小泉改革によって、民主党の改革路線は霞んだものになってしまいます。

 枝野さんは言います。

 小泉内閣といいますか、小泉さんに対しては、我々とかなり共通した認識を持っている部分があるということを私は率直に認めています(「もはや自民党に政権担当能力はない--国家の危機を救えるのは民主党!」『バンガード 』2001年11月号)

 では、どうやって小泉改革との差異を打ち出すべきか。

 枝野さんは、小泉改革を「やりやすい既得権益に手を付けているに過ぎない」と批判し、これは本当の既得権解体ではないと訴えます。小泉改革によって「強い既得権益はますます強くなり、不公正な格差が一層広がっていく」。そう論じました。

 ポイントは格差の拡大です。

 枝野さんは、早い段階から、小泉構造改革によって不公正な格差が拡大することを指摘しました。

 小泉改革は今あるものにメスを入れて壊せばいいという考え方しかなく、その先にあるべき社会的公正という理念やビジョンが存在しません。
 (中略)雇用の流動化への対応にあたって、派遣とか職業紹介の規制緩和が必要ですが、結局それが低賃金労働者への置きかえに使われるとすれば、それはアンフェアです。(枝野幸男、加藤友康「対談・政権政党への課題 政治は私たちの生活に直結 積極的に参画し発言しよう」『あけぼの』2001年10月号)

 さらに、次のように言及します。

 決定的に違っているのはセーフティネットについてです。我々はセーフティネットはしっかりと設けるべきで、広い意味での社会保障については効率化を図るかもしれないけどもカットはしません。
 しかし小泉構造改革は、社会保障の分野もカットしようという意思が非常に強い。つまり旧大蔵省(財務省)型の構造改革、財政規律一本槍の構造改革なのです。我々も財政規律を大切にしますけれども、それは公共事業を中心とする経済の分野に対して財政が過大な負担を受けないということであって、そこで余力をつくることで社会保障を充実させるというもの。ですから、そのような構造改革の目標自体も実はズレがあると見ています(前掲「もはや自民党に政権担当能力はない--国家の危機を救えるのは民主党!」)

 民主党の迷走は続きます。自民党に対抗する勢力を構成しようとするあまり、政界再編を進め、小沢さんが率いる自由党の合併に踏み切りました。

「生命のメッセージ展」in国会のセレモニーに出席した小泉純一郎首相と民主党・菅直人代表=2003年2月18日、東京・永田町

 枝野さんは自由党との合併に慎重な立場をとっていましたが(「特集インタビュー 民主党政策調査会長 枝野幸男 自民党政権に代わる"受け皿"はできた! 」『月刊官界』2003年10月号)、2003年に民自合併が成立します。新自由主義的要素を含む『日本改造計画』の著者・小沢一郎が加入したことで、民主党は小泉政権との差異化がさらに難しくなり、埋没していきます。

 政権交代を担う政党としては、左派的立場からのイデオロギー闘争に持ち込むわけにはいきません。「イデオロギー的には、「資本主義」「自由主義」と、「日米の協力」を前提にする政党であるという意味では、民主党も自民党も全く変わりはありません」。一方で、これまで通り、中央集権からの脱却を強調しても、なかなか伝わりづらい。「有権者に自民党との明確な対立軸をなかなか伝え切れない」。そんなジレンマに悩まされることになります。(「政権交代への展望」『公研』2004年9月号)

 結果、2005年の郵政選挙での大敗し、さらに2006年には偽メール問題で前原代表が辞任に追い込まれたところで、民主党は窮地に立たされます。

 この時、党員が頼ったのが小沢一郎さんでした。小沢が代表になると、理念をしっかりと固めないまま、自民党の新自由主義路線への対抗軸として「国民の生活が第一」を打ち出します。党内をまとめていたのは、統一された理念やヴィジョンではなく、政権交代という目標でした。

改憲機運の高まり、立憲主義の強調

 2005年、枝野さんは民主党の憲法調査会会長に就任します。自民党政権内で安倍晋三さんの存在感が増し、ポスト小泉として首相への道を進む中、与党内から憲法改正に対する機運が高まってきました。

 民主党は、争点を憲法に見出そうとし、「創憲」論を打ち出します。旧来の護憲/改憲の二元論を超え、現実的な憲法論を展開しようとしました。

 憲法調査会長になった枝野さんは、地方分権や行政をめぐる条文の改正を提案し、9条については自衛権の限界を憲法に明記すべきことを主張しました。

 枝野さんは自民党のイデオロギー的改憲論に真っ向から批判を加えます。小泉政権から安倍政権に至る右傾化は、自民党が公共工事などの「現世利益」によって支持者をつなぎとめることができなくなったことへの補完手段であり、この点を批判するのが民主党の役割だと考えました。

 民主党と自民党の違いを打ち出すときに、とことん“右”に振れるしかないのではないか。つまり、内政で差別化がはかれずに勝てなくなった政党は、イデオロギー的に右へ右へと振っていくしかないのです。
 民主党が、当たり前とされる線での憲法改正を堂々と主張した瞬間に、自民党は「どれでは足りない」といってグーンと右に振り、もうちょっと民主党が右に寄ると、自民党はさらに右に振るでしょう。そして、「民主党のせいで憲法改正ができない」と常に言い続け、憲法改正を最大の争点にし続けるのです。自民党の生き残りのためには、それしかないだろうなと思います(「政権交代への展望」『公研』2004年9月号)

 枝野さんの戦略は、右傾化路線を進む自民党に対して、リベラルなリアリズムを提示することで、差異化を図るというものでした。

 憲法改正には国会で三分の二の賛成が必要です。本気で憲法を変えようと思うならば、民主党との連携が不可欠です。にもかかわらず、右派イデオロギーに基づく自民党の改憲論者は、民主党と対話しようとしません。議論によって改正案を具体化しようとする姿勢も見られません。

 そんな自民党の改憲派に対して、枝野さんは「一番の護憲派」と厳しく批判します。

 自民党の改憲論は、現実的な改憲を目指しているのではなく、イデオロギーを振りかざすことによって、右派的な支持層をつなぎとめようとする戦略・手段であって、結局のところ憲法が変わらないことを前提に、期待値を操作しているに過ぎない。改憲がうまくいかないことによってこそ、自分たちが必要とされるという逆説を利用し、支持を獲得している。「要するに、変えると言いながら変えないことが、一部の例外を除いた自民党の多数の人たちにちにとっては一番「おいしい」のだろう」(「インタビュー 自民党こそ究極の護憲政党だ--民主党憲法調査会長 枝野幸男」『論座』2005年4月号)

 枝野さんが一連の議論の中で強調したのが、立憲主義の重要性でした。

 憲法に関して、今、最も大切なことは、立憲主義の鍛え直しです。
 どんな権力であっても、法によって拘束される。これが、近代立憲主義の大原則です。この前提が忘れ去られ、立憲主義に基づいて「公権力を拘束するための法」であるという、憲法の定義すら理解しない議論が大手を振っています。憲法で拘束される側である内閣が、憲法解釈を勝手に変更しようとしたり、自民党の憲法草案のように、権力への拘束を徹底的に緩め、国民の義務ばかりを書き込んだ案が堂々と語られたり。国民の義務は、公権力が法律で自由に決めることができるのであり、法律を持ってしても公権力ができないことを規定するのが憲法の役割です。こんな基本的な理解すら欠けている政治家がはびこっている状況は、戦前回帰どころか、明治憲法制定前の100年以上も前まで、時代をさかのぼってしまったようです。
 民主党は、立憲主義の基本に立ち返り、「憲法は国民が作るもの」「憲法はどんな政権であっても守るべき公権力としての共通ルール」という観点から、国民の皆さんとの対話を通じて、憲法の議論を進めていきます。(「民主党 立憲主義の基本尊重し憲法の空洞化阻止 改正含む国民的議論と広範な合意形成を」『あけぼの』2007年6月)

 注目すべきは、この発言が2007年の第一次安倍内閣の時になされているということです。安保法制が問題となり、立憲主義が広く論じられたのは2015年から16年にかけてです。枝野さんはその約10年前から立憲主義の重要性を自民党に突き付け、論争を挑んでいました。

 「立憲民主党」という党名にこだわったことの背景には、長い積み重ねがあったのです。

講演する枝野幸男立憲民主党代表=2018年12月22日、鳥取県米子市

不妊治療の経験

 この野党時代の経験として重要なのは、4年間の不妊治療によって、2006年に双子を授かったことでした。

 このプロセスは、妻(枝野和子さん)との対談として、公表されています。(枝野幸男、枝野和子「四年間の不妊治療を経て 私たちも愛育病院で帝王切開、そして双子の親に」『諸君』2006年10月号)

 枝野さんはこの経験を通じて、

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