中島岳志の「野党を読む」(1)枝野幸男
右派イデオロギーとは異なる「保守」にこだわる原点は、新党さきがけにある
中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授
昨年9月から連載してきた「中島岳志の自民党を読む」に続き、今回から野党編が始まります。これまでの連載に大幅加筆したものは、スタンドブックスから『自民党 価値とリスクのマトリクス』として出版されます。5月31日発売予定です。

2017衆院選。インタビューに答える立憲民主党の枝野幸男代表=2017年10月22日
リベラルな保守
さて、今回取り上げるのは枝野幸男さん。2017年10月に立憲民主党を立ち上げ、代表となりました。衆議院議員選挙を目前とする中で「希望の党」が結成され、民進党の多くの議員が合流する中、この流れから「排除」された議員をまとめ、大きな期待を集めました。
選挙結果は、立憲民主党が野党第一党を獲得。枝野さんは、政権交代が起きた時の首相候補NO.1に躍り出ました。
選挙中、枝野さんは「まっとうな政治」「右か左かではなく前へ」「リベラルな保守」などのフレーズを多用しました。自らの立ち位置を「革新」ではなく「保守」と位置付け、「パターナリズム」に対する「リベラリズム」を重視しました。選挙後のインタビューでは、次のように言っています。
私自身は宏池会の思想的な流れにある。あるいは石橋湛山(第55代首相)の流れにあると、自分は思っています。(「枝野幸男 立憲民主党 代表 独占インタビュー 私が菅官房長官を高く評価する理由」『プレジデント』2018年1月15日号)
この枝野さんの立場を「意外」と感じた人が多かったようですが、彼の政治家としての歩みを見ていくと、それが「当然」であることが理解できます。
以下では、枝野さんがこれまで書いてきた著書や論考、インタビュー、対談などを整理しながら、その歩みに即して理念やヴィジョンを見ていきたいと思います。
与党議員として政治家人生をスタート

初登院し、国会議事堂を背にカメラにポーズをとるた日本新党の議員たち。枝野氏の姿も=1993年8月5日
枝野さんの政治家としてのデビューは、細川護煕さんが立ち上げた日本新党です。1993年に日本新党の候補者公募に合格。落下傘候補として旧埼玉5区から立候補し、当選しました。
枝野幸男という政治家を考える時に重要なのは、彼が政治家としてのスタートを与党議員として迎えたことです。
1993年の衆議院選挙の結果、細川内閣が誕生し、自民党が下野しました。枝野さんは与党議員として、翌年成立した製造物責任法(PL法)の立案などに関わります。具体的な政策を実現するプロセスをはじめから経験したことで、旧社会党系の「野党議員」とは異なったマインドを持つことになります。
PL法の立案について、次のように述べています。
この法律は政府提案の法律でしたが、実質的には議員立法だったといってよく、しかも本格的に議員たちが一からつくったという点では画期的な作り方をしたと思っています。
この法律は経済企画庁が担当していたのですが、役人を呼んで、一条一条すべてを議員たちが集まってチェックし、書き直していったのです。(『それでも政治が変えられる-市民派若手議員の奮戦記』マネジメント社、1998年)

簗瀬進氏(右端)の応援に枝野幸男・民主党幹事長も駆けつけた=2010年6月13日、宇都宮市
枝野さんが頼りにしたのは、日本新党と衆議院内会派を組んだ新党さきがけの先輩議員たちでした。
新党さきがけを結成したのは、自民党の中堅・若手議員だった武村正義、田中秀征、園田博之、鳩山由紀夫、井出正一、簗瀬進といった政治家たちでした。彼らの多くは自民党の政治腐敗を批判し、リベラル保守という立場から政治改革を志向した「ユートピア政治研究会」のメンバーでした。
中でも慕ったのは、同じ高校出身の簗瀬進さんでした。枝野さんの政治家としての原点は、新党さきがけとの出会いにあります。ここで「リベラルな保守」という立ち位置を獲得し、政策実現を志向する与党議員としてのマインドを確立しました。
これが立憲民主党結成時の言葉に繋がっています。