中島岳志の「野党を読む」(1)枝野幸男
右派イデオロギーとは異なる「保守」にこだわる原点は、新党さきがけにある
中島岳志 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授
小沢一郎への強烈な不信
一方、枝野さんが強い不信と違和感を持ったのが、小沢一郎という政治家でした。
小沢さんは細川内閣の立役者で、当時、強い政治力を誇示していました。彼が出版した『日本改造計画』はベストセラーになり、政治改革の機運を生み出しました。
枝野さんは新生党の山口敏夫さんからの誘いで、小沢さんと食事をしました。当時の小沢さんにとって、日本新党の若手議員を取り込むことは、自らの政治勢力拡大にとって重要な意味を持っていました。
枝野さんは小沢さんの本について反論があり、身のある対話を期待して出かけていきました。しかし、実際の小沢さんは、議論に「まったく乗ってきません」。終始「選挙と金」の話で、「小沢氏についていけば、次の選挙では金も票も面倒みる、とうようなことばかりを言っていました」。
枝野さんは言います。
(小沢氏には)政治家はすべて金と票を目の前にぶら下げれば、それで動くという先入観があるようでした。
そういう人もいるでしょうが、それではいけないんだ、というのが日本新党の理念だったはずです。ところが、小沢氏は改革といいながら、どうも本気で改革しようという気はないようでした。政策でも官僚に依存し、資金面や選挙ではゼネコンに依存し、という自民党の悪い体質そのままの人なんだ、と改めて私は確信しました。
改革を言っていますが、それは権力を握るための道具でしかない。本当に改革する気はないのではないか。これは今も変わらない、私の小沢氏への評価です。(前掲書)
この文章が書かれたのは1998年です。この小沢不信は、枝野さんの政治家人生を考える際、重要な意味を持ちます。

衆院本会議に臨む民主党・小沢一郎幹事長(奥右)と枝野幸男行政刷新担当相(手前右)=2010年2月18日
のちに枝野さんは、民主党と自由党の合併により小沢さんと同じ党のメンバーとなりますが、小沢さんが党の主導権を握ると、中枢から露骨に外されました。今日に至るまで、二人の反目は長く続くことになりますが、その原点には小沢さんの政治観に対する強烈な批判と不信があります。この点は重要です。単なる人間の好き嫌いの問題ではありません。
細川内閣は、消費税率を7%に引き上げようとした「国民福祉税構想」騒動によって求心力を失い、細川さん自身の佐川急便グループからの借入金処理問題によって瓦解します。この過程で小沢さんと武村正義さんの対立が鮮明になり、細川さんは小沢さん側について、武村さんを排除するようになります。その結果、日本新党の中に分断が生じ、のちの新進党に合流するグループと、新党さきがけに合流するグループに分かれていきます。
枝野さんは新党さきがけを選択します。その結果、羽田内閣を経て誕生した村山内閣に、新党さきがけのメンバーとして参画することになります。
枝野さんは、党の政策調査会副会長に就任しますが、この時の会長が菅直人さんでした。そして、この二人の関係が、与党のなかで大きな政治的成果を生み出すことになります。