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原武史「平成は天皇制を強固にした」

奉祝ムードに染まった日本社会。国民は「平成流」を支持し、天皇の求心力は増大した

石川智也 朝日新聞記者

橿原神宮前駅に到着した上皇、上皇后=2019年3月26日、奈良県橿原市

 たったひとりの老人の引退劇が、過去を洪水のように押し流し、人々に時代の転換を強烈に印象づけるとともに、過去をよりいっそう刻みつける――この奇妙な磁場と時間軸を抱えた空間は、いったいどのようにできあがったのか。
 「平成最後」との合言葉が乱舞し、天皇への感謝親愛と新時代への「期待」の声が吹き荒れたこの1カ月。喧噪から遠く引いた視点で、「象徴」と「国民」の政治的関係性を読み解いてきたのが原武史・放送大教授だ。3年前の「おことば」表明から退位特例法成立、そして代替わりに至る一連の流れに異を唱え続けてきた数少ない専門家でもある。
 このところメディアに引っ張りだこだが、その発言は大方マイルドに編集されている。あらためて、この国最大の禁忌である天皇というシステムの今後の姿について、タブーを超えて語ってもらった。
(ちなみに、原教授は天皇について語る際、敬称や敬語をいっさい用いない。客観的、学術的に対象を扱うためだ。敬語使用と批判、批評は両立が難しいものであり、こうした姿勢は本来ジャーナリズムにも求められていた。だが敗戦後の1947年、主要メディアは宮内府(当時)と「普通のことばの範囲内(「玉体」は「おからだ」、「宸襟」は「お考え」に)で最上級の敬語を使う」という方針で合意。この考えは国語審議会にも受け継がれた)

原武史・放送大教授

原武史(はら・たけし) 1962年生まれ。専門は日本政治思想史。『大正天皇』(毎日出版文化賞)、『昭和天皇』(司馬遼太郎賞)、『皇后考』など著書多数。近著に『平成の終焉――退位と天皇・皇后』(岩波新書)

「奉祝」ムード一色、極めて異様

 ――昭和が終わる際には不健全な「自粛」が世を覆う一方で、天皇の戦争責任や政教分離など直球の議論も盛り上がり、自粛に抗う催しも各地で開かれました。今回は逝去が伴わない改元ということもあってか、祝賀を強いるような「右ならえ」の空気をより濃厚に感じます。

 まさに「奉祝」ムード一色で、極めて異様だと思います。言論状態が閉塞していますね。「おことば」に批判的なことを言ってきた僕が日本のメディアで長いコメントを求められるのは、ほとんどネットメディア。そういうところでしかタブーをぶつけることができなくなっている。むしろ海外メディアの方が客観的で、こちらの意図を汲んで本質的なことをきちんと質問し、報じています。

 一番の問題は、このお祝いムードと新上皇への「ありがとう陛下」という感情の渦のなかで、「おことば」によって露わになった天皇制の問題と今後のあり方を、国民がまったく議論しようとしていないことです。言うまでもなく、憲法第1条に明記されているように、象徴とされている天皇の地位は、主権者である国民が論じて決めていくべきものです。

 ――「おことば」から退位までの経緯は、日本国憲法で規定された象徴天皇制の矩を超えた疑いがありますが、国民の圧倒的支持でかき消された感がありますね。

 「おことば」は象徴天皇制が抱える様々な問題を噴出させたし、その内容も大きな問題を抱えたものでした。

 現憲法下で、天皇は国政に関する権能を有しません。にもかかわらず、2016年のあの「おことば」は、事前に「8月8日の午後3時から」と放送日時を指定した上で、天皇自らがビデオメッセージで11分にもわたって、政府や国会を通さずに国民にダイレクトに語りかけました。そこから急に政府が動きだし、国会が議論を始め、特例法が成立した。結果として法の上に天皇が立ち、露骨に国政を動かしたのです。

 戦後、このように天皇が意思を公に表し、それを受けて法律が作られたり改正されたりしたことはありません。

 さらに言えば、明治憲法下で「大権」を持っていた明治天皇や大正天皇、戦前の昭和天皇の時も、こんなことはありませんでした。もはや権威どころか、はっきりと「権力を持っている」と認めなければならない事態です。

 にもかかわらず、この「おことば」に対する世の反応は、「厳粛な気持ちになった」とか「陛下の決断を温かく見守ろう」という受け止めが大半でした。天皇が持つ政治性や権力について突き詰めて考えようという姿勢があまりに欠けていました。結果、「一代限りの例外」ということで問題を先送りし、主権者として吟味すべき本質に触れぬまま、代替わりを迎えた。そしてそのことへの反省すらない状況です。

 しかも、特例法の第1条には「おことば」への言及はなく、あたかも国民が高齢の天皇の気持ちを理解し気遣って立法したかのように構成されている。憲法との整合性を気遣って、あたかも「民意」が反映しているかのように取り繕っている。でも、これはあきらかにまやかしです。

「おことば」にはもっと疑義が呈されてしかるべきだった

 ――明仁上皇は以前から退位の意思を示していたものの政治がその声にこたえず、「おことば」はやむをえず意向をにじませたものとされていますね。日本の超高齢社会の問題にも触れ、あらためて国民への相互の信頼と敬愛を示したということで、「第二の人間宣言」と評価する人もいます。

 それは、政府内にも国民にも「天皇に退位をすすめるのは畏れ多い」というタブー意識がいまだに根強く残り、天皇制について自由に意見を言える空気自体がないからです。

 あの「おことば」は、1946年元日に昭和天皇が「現御神」であることを否定したいわゆる「人間宣言」よりもむしろ、1945年8月15日の「終戦の詔書」つまり「玉音放送」に類比できるものです。

 当時の鈴木貫太郎内閣は終戦に向けて政府をまとめることができず、非常手段として「ご聖断」を仰ぎ、ようやくポツダム宣言受諾に至った。玉音放送が流れるまでは、たとえこの戦争は負けると思っていても、公然と言える空気ではありませんでした。

 ところが、天皇が肉声で臣民に直接語りかけたあの放送が流れるや、絶大な効果によって、圧倒的多数が敗戦を受け入れました。その流れは、今回の退位をめぐる動きとよく似ています。

 終戦の詔書には「常ニ爾臣民ト共ニ在リ」「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」との言葉がありましたが、「おことば」にも「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり」「国民の理解を得られることを、切に願っています」という、よく似た言い回しがあります。

 上皇明仁が玉音放送を意識していたことは明らかだと思います。でも、それが天皇の持つ強大な権力が端的に現れたものだということを、どこまで自覚していたでしょうか。

 もう一つ着目すべきは、東日本大震災から5日後に天皇がテレビで述べた「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」です。震災に続いて津波や原発事故が起こり、人心が極度に動揺する最中に発せられたこの「おことば」は、人々の不安を和らげる絶大な効果を発揮しました。天皇が首相よりも大きな影響力をもっていることが明らかになったのです。

JP東京駅で、安倍晋三首相の見送りを受ける上皇、上皇后=2019年4月17日

 2016年8月8日の「おことば」は、この前例を多分に意識しつつ、退位に向けて国民の圧倒的支持を獲得するために発せられたと見ることもできます。

 こうして見ると、「おことば」に対しては憲法学者や政治学者たちからもっと疑義が呈されてしかるべきですが、一部の左派以外に問題提起する人がほとんどいない。それどころか「天皇が個人、当事者として発言することは憲法上許容される」という趣旨の発言をした学者もいました。驚きです。

 ――「おことば」の内容で重要な点はもう一つ、「象徴としてのお務め」の内容に具体的に触れている点です。これについても、憲法に規定された国民主権の原則との矛盾を指摘していますね。

 憲法は「象徴」の定義についてなんら触れていません。一方、第4条は、天皇は憲法が定める国事行為のみを行うと定めている。実際にはそれ以外に様々な「公務」を行っており、この公務の位置づけをどうするかについては、ながらく議論されてきました。

 ところが、天皇明仁は「おことば」のなかで、「象徴としてのお務め」について自ら定義づけを行い、「国民の安寧と幸せを祈ること」と「時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」を、二本柱として位置づけました。

 これは、宮中祭祀と行幸を指しています。ご存じのとおり、上皇明仁と上皇后美智子は天皇皇后時代、いや皇太子と皇太子妃時代から、この二つにまさに「全身全霊をもって」取り組んできました。

 特にこの行幸啓は、昭和天皇がほぼ手をつけなかった被災地訪問と慰霊の旅を通じて国民に寄り添う姿勢を印象づけ、天皇制の新たなスタイルを確立しました。全国津々浦々をくまなく歩き、避難所に作業着姿で分け入って自らひざまずき、目線を下げ、被災者一人ひとりの顔を見てじっくりと言葉をかける。これが「平成流」と呼ばれるもので、明治大正昭和にはあり得なかったものです。

 かつての行幸は、イデオロギー教育を施したうえで、多くの人々を動員して君が代斉唱や万歳や分列行進などをさせるものでした。天皇は抽象的なマスとしての臣民あるいは国民にのみ対し、具体的な一人ひとりの顔を見ていません。しかし平成の天皇皇后は、個々の国民との関係性をつくろうと努力してきたように見えます。

 このスタイルは、カトリック的な教育の背景を持つ上皇后美智子が皇太子妃時代から方向性を形作ってきたものだと僕はみています。

 ただ、そこに本当の意味での「交流」はない。声をかけるのは常に天皇の側からであり、国民が天皇に向かって意見を表明することはあり得ません。そのことじたい、象徴の地位を「主権の存する日本国民の総意に基く」と規定した憲法第1条と矛盾しています。その矛盾が、天皇が象徴の振る舞いとは何かを自ら定義してしまった「おことば」に表れています。

国民は「平成流」を支持し、天皇の求心力は増大した

東日本大震災直後、7週連続で被災者を見舞った=2011年4月、宮城県南三陸町歌津
 ――しかも、この新たな行幸啓のスタイルは、また別の意味で、天皇がダイレクトに国民とつながるチャンネルを開いてしまった。

 そうです。北は宗谷岬から南は与那国島まで、かつてないほどの数の地方訪問を通じて、戦前とは違うかたちで天皇・皇后が国民一人ひとりと結びついた。行幸啓を記念する石碑が全国各地に建てられ「聖蹟」化し、新たな「国体」が国民のなかで内面化されていく。僕は「国体のミクロ化」と呼んでいますが、その意味では、天皇制はより強固になったのです。

 そして、これは一朝一夕に成立したものではありません。1959年の結婚直後から60年間にわたって積み上げられてきたものです。

 現上皇・上皇后のふたりが災害直後にそろって被災地入りしたのは、平成の幕開け間もない1991年の雲仙普賢岳の大火砕流のときです。被災者が避難する体育館でふたりは二手に分かれてひざまずき、被災者と同じ目の高さで一人ひとりに語りかけた。その姿が繰り返しニュースで流されました。

 その後、北海道南西沖地震、阪神・淡路大震災、中越地震と大災害のたびに同じ行動が繰り返されます。

 右派にとって、こうした姿はあってはならないものでした。天皇は人々が仰ぎ見るべき神格化された存在でなければならない。皇后美智子が存在感を示し、ミッチーブーム以来の天皇を上回る人気を背景に、昭和とは異なるスタイルを築いていったことも、受け入れがたかったでしょう。

 江藤淳は阪神・淡路大震災後、「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない」と、その行動を批判しています。また、新聞にも「天皇訪問よりも仮設住宅を早く造ることに政府は全力をあげろ」「被災地に警備の負担をかけ、迷惑」といった声が載っていました。

 しかしそうした疑問の声は、東日本大震災を機にいっさい消えます。

 発生から5日後の3月16日午後4時35分、前述した「東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば」がテレビで放映されました。人心が激しく動揺するなかで、テレビを通じて直接国民に語りかけ被災者や防災関係者を励ましたそのメッセージは、人々の心に強く響きました。

 天皇はこの「おことば」を自ら実践するかのように、その後7週間連続で皇后とともに被災地を訪問し続けます。都知事の石原慎太郎が「皇太子や秋篠宮を名代にしては」と進言したものの天皇明仁はそれを断り、強い意志で被災地に赴いたといわれています。

 実際には皇太子や秋篠宮も被災地を訪れましたし、政治家や宗教者も数多く行っています。にもかかわらず、メディアは天皇皇后が被災者の前でひざまずく姿を繰り返し流しました。ふたりの存在感が突出し、「国民に寄り添う」天皇のイメージが強く国民に刻印されたのです。

 「陛下がいらっしゃる限りはこの国は大丈夫」といった空気が社会に広がっていく様子は、ある意味で、世俗権力が持たない宗教的な力、天皇の「聖性」が発揮されたとすら感じさせるものでした。

 以来、ふたりの行動には右派からの批判も消え、称賛一辺倒になります。国民は「平成流」を支持し、天皇の求心力は増大しました。

皇室の政治的発言に、国民とメディアの受け止め方が甘くなった

 ――平成流のあらたな「国体」をつくるのに、メディアが大きく貢献したということですね。

 上皇明仁本人も宮内庁も、それに自覚的だったと思います。

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