【15】ナショナリズム 日本とは何か/沖縄と「祖国」⑤
2019年07月25日
「沖縄の保守」について考えている。
今回の参院選でも「沖縄の保守」は苦杯をなめた。自民党候補が無所属候補に敗北。焦点となった政府が進める普天間飛行場の県内移設について、無所属候補は反対を唱え、自民党候補は歯切れが悪かった。
近代国家・日本を築くために愛郷心を愛国心へつなげようとする営みは、沖縄との間で曲折を経てきた。沖縄は戦後、1952年に日本が主権を回復した際に切り離され、米軍統治下に置かれた。激しい祖国復帰運動の末に72年に日本に戻ったが、米軍基地は残った。
日本復帰後もそんな苦境が変わらぬ沖縄で、「沖縄の保守」は何を守ろうとしているのだろう。
昨年急逝した知事の翁長雄志は、かつて自民党県連幹事長を務めた「沖縄の保守」だった。その翁長が晩年は普天間問題で安倍政権と鋭く対立し、「政府は沖縄県民を日本国民として見ていない」とまで語った。
「沖縄の保守」はどこへゆくのか。生い立ちとあわせて、ぜひ話を聞いてみたい人がいた。
実は私も生まれは1972年。この春、東京・永田町で国場さんに会ってそう伝えると、「そうですか。うれしいなあ」と相好を崩した。
だが、同世代といえど沖縄生まれの「復帰っ子」が背負うものは大きい。かつて私が朝日新聞那覇支局にいたころ、知り合った年配の方々に「私も復帰っ子です」と言ってみたら、「ヤマト(本土)生まれは復帰っ子と言わんよ」とやんわり諭された。恥ずかしかったが、なぜそうなのかは少し後で述べる。
沖縄で「コクバ」と言えば、祖父の国場幸太郎(1900~88)の方がまだまだ名が通る。戦後の沖縄でインフラから米軍基地の工事まで旺盛に手がけ、復興を支えた建設業者だ。本島北端の森深い国頭村出身で、小学生で大工の棟梁の家に年期奉公に出て、一代で沖縄最大の建設会社「国場組」を築いた。
その孫で「沖縄の保守」を継ぐという国場さんは、衆院議員に初当選した翌年の2013年に塗炭の苦しみにまみれた。沖縄の自民党国会議員が避けて通れない、米軍普天間飛行場の移設問題での踏み絵だ。
自民党本部での記者会見で説得の経緯を語る石破氏の脇に5人が並び、真ん中で国場さんがうつむいていた。その様子は沖縄の地元紙に「琉球処分」に例えられた。明治初期に琉球王国が沖縄県として近代国家・日本に組み込まれていった出来事だ。
国場さんは、「その頃は、地元を回ったら名刺をやぶかれました」と振り返る。「国の沖縄に対する姿勢を、なぜあそこまで高圧的に示す必要があったのか」
そんなつらい思いをしてなお、自民党の国会議員であり続ける。その「沖縄の保守」へのこだわりとは何だろう。
「復帰前世代は、本土に留学したような先輩の方々でも、ヤマトグチ(標準語)がうまく話せない、沖縄人だから下宿はお断りといった原体験がある。だから復帰後世代に対して、同じ日本国憲法が適用されるようになったんだから、ヤマトンチュ(本土の人)に負けるな、沖縄の新しい時代を切り開いてくれという思いがあるんです」
本土出身の私が1972年生まれというだけで、沖縄で「復帰っ子」と自己紹介して、苦笑されるわけだ。
そこで選んだのが、保守の道だった。
自民党の佐藤栄作政権で米軍基地をそのままに実現した復帰について、沖縄の政界はそれを認める保守と、反発する革新に割れた。国場氏が保守になったのは、佐藤と祖父の影響が大きい。
日米安保体制を受け入れつつ成果をもぎとっていく、保守のリアリズムへの共鳴からだ。
「沖縄では戦後、米軍基地の整備を次々と受注する国場組に『アメリカの手先になりやがって』という批判もありました。でも祖父は、復興にはまず県民に働く場所を作って生活させることが大事だ、将来基地が返還されれば沖縄の財産になると言っていました」
政治家を志した中学生の頃、そんな祖父を尊敬するという数学の教師に出会った。高校生の時には、祖父が逝くと地元メディアはこぞって大きく報じた。
「コクバってのはこういう歴史を背負ってるんだな、とルーツを突きつけられた感じでした」
では、国場さんは「沖縄の保守」として、日米安保体制下の米軍基地を受け入れつつ、どんな成果を得ようというのか。
代償としての振興策には限界がある。それは、復帰後も基地返還が進まない中で米軍関連の事件・事故が続き、人権問題として県民の反発が収まらない現状が示しているのだが……
国場さんは「沖縄の保守」の役割を、「国益と県益の重なりが生まれるよう、米軍基地の負担軽減に向け、政府と粘り強く交渉すること」ととらえている。「国益と県益の重なり」の追求には、愛郷心を愛国心につなげようとする近代国家の営みに通じるものがある。
1990年代後半、かつて沖縄問題で佐藤栄作の薫陶を受けた2人の首相を見て、その思いを強めたという。その2人とは、米軍普天間飛行場の返還について米国と合意した橋本龍太郎と、その後継として沖縄サミット開催を決めた小渕恵三だった。
自民党は小渕が急逝した2000年以降も「日本の保守」を自任してきた。だが、国場さんが初当選した2012年の衆院選で生まれた、今の安倍政権はどうなのか。
普天間飛行場の県内移設をめぐり、国場さんに踏み絵を迫った。県民投票の結果を顧みず辺野古沖で埋め立て工事を進めている。
そうした自民党政権の姿勢に「保守の寛容」は感じられない。中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイルを理由にして、戦後日本に生まれた新たな「国体」としての日米安保体制への依存を、在日米軍基地が集中する沖縄を要(かなめ)として強めるばかりだ。
県外移設は諦めたのですか、と聞くと、「段階的に県外というのは変わりませんが、国際環境の変化もありますし……」と口が重い。
県内移設を進める政権与党にあり続ければ、振興策で政府と連携してきた「沖縄の保守」を取り巻く現実にも絡めとられる。
国場さんが責任者である自民党支部に対し、2017年衆院選の際に20万円を献金した県内の中堅建設会社があった。その会社は、普天間移設関連工事を防衛省から受注していた。14年衆院選の時も、県内の別の中堅建設会社との間で似たことがあった。
政府と契約する業者から国政選挙に関する寄付を受けることは、公職選挙法で禁じられている。
国場さんは「沖縄の経済を支える中小企業とのつきあいは広いんです。今回の2社が政府と契約していたとは知らなかったが、誤解を招くので献金は返しました。李下に冠を正さずで、特に選挙中は気をつけたい」と話す。
かつて県外移設を唱えていた立場からすれば、いかにも印象の悪い出来事だ。
だが、国場さんがその深みにはまるなら、沖縄全体の将来を「復帰っ子」に託す人々の期待から遠ざかることになるだろう。
国場さんの祖父が土台を築いた「沖縄の保守」は、翁長の晩年に象徴されるように揺らいでいる。歴代最長政権を享受しようかという安倍政権の下、沖縄への寛容さを失った「日本の保守」との間で、国場さんは「国益と県益の重なり」をどう見いだそうというのか。
自身への叱咤か、政権への異議か、国場さんは静かに語った。
「日本の中に沖縄があり、沖縄の中に日本がある。今もなお在日米軍基地が集中しているので本土からは見えにくいけれど、日本の政治を、沖縄から考えないといけないんです」
※次回は8月1日に公開予定です。
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