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「復帰っ子」の模索 沖縄の保守と日本の保守

【15】ナショナリズム 日本とは何か/沖縄と「祖国」⑤

藤田直央 朝日新聞編集委員(日本政治、外交、安全保障)

2013年11月25日、自民党の石破茂幹事長(左端)と会談後に記者会見に同席した国場幸之助氏(中央)ら沖縄選出の自民党国会議員=東京・永田町の党本部。朝日新聞社

「沖縄の保守」はどこへ

 「沖縄の保守」について考えている。

 今回の参院選でも「沖縄の保守」は苦杯をなめた。自民党候補が無所属候補に敗北。焦点となった政府が進める普天間飛行場の県内移設について、無所属候補は反対を唱え、自民党候補は歯切れが悪かった。

 近代国家・日本を築くために愛郷心を愛国心へつなげようとする営みは、沖縄との間で曲折を経てきた。沖縄は戦後、1952年に日本が主権を回復した際に切り離され、米軍統治下に置かれた。激しい祖国復帰運動の末に72年に日本に戻ったが、米軍基地は残った。

沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場。政府は「住宅や学校で囲まれ、世界で最も危険と言われ、固定化は絶対に避けなければならない」(安倍晋三首相)として沖縄県内での移設を急ぐ=6月。朝日新聞社
 戦後日本に生まれた日米安保体制が、新たな「国体」ともいえるぶ厚さで、「国民」を代表するはずの日本政府の力の及びがたい存在となっていた。その象徴として、沖縄の「国民」が望まぬ「在日米軍基地が集中する沖縄」が、今日まで変わらずあり続けている。

 日本復帰後もそんな苦境が変わらぬ沖縄で、「沖縄の保守」は何を守ろうとしているのだろう。

 昨年急逝した知事の翁長雄志は、かつて自民党県連幹事長を務めた「沖縄の保守」だった。その翁長が晩年は普天間問題で安倍政権と鋭く対立し、「政府は沖縄県民を日本国民として見ていない」とまで語った。

 「沖縄の保守」はどこへゆくのか。生い立ちとあわせて、ぜひ話を聞いてみたい人がいた。

復帰の年生まれの国会議員

取材に応じる「復帰っ子」、国場幸之助衆院議員=4月、東京・永田町の衆院議員会館。藤田撮影
 自民党の国場幸之助衆院議員(46)。那覇出身で、沖縄では「復帰っ子」と呼ばれる72年度の生まれだ。

 実は私も生まれは1972年。この春、東京・永田町で国場さんに会ってそう伝えると、「そうですか。うれしいなあ」と相好を崩した。

 だが、同世代といえど沖縄生まれの「復帰っ子」が背負うものは大きい。かつて私が朝日新聞那覇支局にいたころ、知り合った年配の方々に「私も復帰っ子です」と言ってみたら、「ヤマト(本土)生まれは復帰っ子と言わんよ」とやんわり諭された。恥ずかしかったが、なぜそうなのかは少し後で述べる。

 沖縄で「コクバ」と言えば、祖父の国場幸太郎(1900~88)の方がまだまだ名が通る。戦後の沖縄でインフラから米軍基地の工事まで旺盛に手がけ、復興を支えた建設業者だ。本島北端の森深い国頭村出身で、小学生で大工の棟梁の家に年期奉公に出て、一代で沖縄最大の建設会社「国場組」を築いた。

 その孫で「沖縄の保守」を継ぐという国場さんは、衆院議員に初当選した翌年の2013年に塗炭の苦しみにまみれた。沖縄の自民党国会議員が避けて通れない、米軍普天間飛行場の移設問題での踏み絵だ。

2013年11月25日、石破茂幹事長と会談後に記者会見に同席した国場幸之助氏(中央)ら沖縄選出の自民党国会議員=東京・永田町の党本部。朝日新聞社
 民主党から2012年に政権を奪還した自民党は、日米両政府の合意通りに名護市辺野古沖への県内移設を進めようと、沖縄が地元の党所属国会議員5人に同意を求めた。その前年の衆院選で初当選した際に県外移設を唱えた国場氏も、石破茂幹事長に押し切られた。

 自民党本部での記者会見で説得の経緯を語る石破氏の脇に5人が並び、真ん中で国場さんがうつむいていた。その様子は沖縄の地元紙に「琉球処分」に例えられた。明治初期に琉球王国が沖縄県として近代国家・日本に組み込まれていった出来事だ。

名刺をやぶかれて

 国場さんは、「その頃は、地元を回ったら名刺をやぶかれました」と振り返る。「国の沖縄に対する姿勢を、なぜあそこまで高圧的に示す必要があったのか」

 そんなつらい思いをしてなお、自民党の国会議員であり続ける。その「沖縄の保守」へのこだわりとは何だろう。

1971年6月、翌年の日本復帰に向け日の丸ちょうちん行列の準備を進める沖縄の経済団体=那覇市。朝日新聞社
 国場さんは保守か革新かの前に、まず「復帰っ子」であることを意識する。いまの沖縄の人口でなお半分を占める復帰前世代から、自身が「1期生」である復帰後世代にかけられる強い期待があるからだ。

 「復帰前世代は、本土に留学したような先輩の方々でも、ヤマトグチ(標準語)がうまく話せない、沖縄人だから下宿はお断りといった原体験がある。だから復帰後世代に対して、同じ日本国憲法が適用されるようになったんだから、ヤマトンチュ(本土の人)に負けるな、沖縄の新しい時代を切り開いてくれという思いがあるんです」

  本土出身の私が1972年生まれというだけで、沖縄で「復帰っ子」と自己紹介して、苦笑されるわけだ。

沖縄が日本復帰30周年を迎えた2002年5月、那覇市では30歳の「復帰っ子」たちがモデルになったファッションショーがあった=朝日新聞社
 国場さんのような「復帰っ子」は、沖縄では復帰後世代の象徴として成長の節目ごとに注目され、小学校入学や成人式などで地元メディアに大きく取り上げられた。そこから国場さんは、「復帰っ子初」の県議、国会議員として政界へ進む。

 そこで選んだのが、保守の道だった。

 自民党の佐藤栄作政権で米軍基地をそのままに実現した復帰について、沖縄の政界はそれを認める保守と、反発する革新に割れた。国場氏が保守になったのは、佐藤と祖父の影響が大きい。

 日米安保体制を受け入れつつ成果をもぎとっていく、保守のリアリズムへの共鳴からだ。

祖父は「国場組」創業者

1985年、84歳の頃の国場組社長・国場幸太郎氏=朝日新聞社
 米国との妥協の末に沖縄返還にこぎつけた佐藤については多弁を要しまい。祖父の国場組創業者・国場幸太郎について、国場さんはこう語る。

 「沖縄では戦後、米軍基地の整備を次々と受注する国場組に『アメリカの手先になりやがって』という批判もありました。でも祖父は、復興にはまず県民に働く場所を作って生活させることが大事だ、将来基地が返還されれば沖縄の財産になると言っていました」

 政治家を志した中学生の頃、そんな祖父を尊敬するという数学の教師に出会った。高校生の時には、祖父が逝くと地元メディアはこぞって大きく報じた。

 「コクバってのはこういう歴史を背負ってるんだな、とルーツを突きつけられた感じでした」

 では、国場さんは「沖縄の保守」として、日米安保体制下の米軍基地を受け入れつつ、どんな成果を得ようというのか。

 代償としての振興策には限界がある。それは、復帰後も基地返還が進まない中で米軍関連の事件・事故が続き、人権問題として県民の反発が収まらない現状が示しているのだが……

 国場さんは「沖縄の保守」の役割を、「国益と県益の重なりが生まれるよう、米軍基地の負担軽減に向け、政府と粘り強く交渉すること」ととらえている。「国益と県益の重なり」の追求には、愛郷心を愛国心につなげようとする近代国家の営みに通じるものがある。

1998年2月、衆院本会議場の閣僚席で隣り合う橋本龍太郎首相と、後継となる小渕恵三外相=朝日新聞社
 そして、その営みは「日本の保守」である自民党政権との間でこそ可能だと考えてきた。なぜなら、島に生きて歴史を重んじ、妥協によって調和を図る「保守の寛容」は、本土も沖縄も変わらないと思ったからだ。

 1990年代後半、かつて沖縄問題で佐藤栄作の薫陶を受けた2人の首相を見て、その思いを強めたという。その2人とは、米軍普天間飛行場の返還について米国と合意した橋本龍太郎と、その後継として沖縄サミット開催を決めた小渕恵三だった。

「日本の保守」のいま

 自民党は小渕が急逝した2000年以降も「日本の保守」を自任してきた。だが、国場さんが初当選した2012年の衆院選で生まれた、今の安倍政権はどうなのか。

 普天間飛行場の県内移設をめぐり、国場さんに踏み絵を迫った。県民投票の結果を顧みず辺野古沖で埋め立て工事を進めている。

 そうした自民党政権の姿勢に「保守の寛容」は感じられない。中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイルを理由にして、戦後日本に生まれた新たな「国体」としての日米安保体制への依存を、在日米軍基地が集中する沖縄を要(かなめ)として強めるばかりだ。

 安倍政権は衆院選で3連勝、国場さんも当選3回となり、今は自民党国防部会長代理を務める。辺野古移設の先頭に立つ防衛省と連携する「国防族」だ。

 県外移設は諦めたのですか、と聞くと、「段階的に県外というのは変わりませんが、国際環境の変化もありますし……」と口が重い。

 県内移設を進める政権与党にあり続ければ、振興策で政府と連携してきた「沖縄の保守」を取り巻く現実にも絡めとられる。

 国場さんが責任者である自民党支部に対し、2017年衆院選の際に20万円を献金した県内の中堅建設会社があった。その会社は、普天間移設関連工事を防衛省から受注していた。14年衆院選の時も、県内の別の中堅建設会社との間で似たことがあった。

 政府と契約する業者から国政選挙に関する寄付を受けることは、公職選挙法で禁じられている。

 国場さんは「沖縄の経済を支える中小企業とのつきあいは広いんです。今回の2社が政府と契約していたとは知らなかったが、誤解を招くので献金は返しました。李下に冠を正さずで、特に選挙中は気をつけたい」と話す。

 かつて県外移設を唱えていた立場からすれば、いかにも印象の悪い出来事だ。

埋め立て工事が進む沖縄県名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沿岸=5月。朝日新聞社機から
 自民党政権が米軍基地負担の代償として振興策を積み重ねるなかで、沖縄の建設業界は自民党の国会議員に「国とのパイプ役」を望むようになった。復帰から半世紀近くかけて生まれた「沖縄の保守」をめぐるそんな構図が、この献金問題に垣間見える。

 だが、国場さんがその深みにはまるなら、沖縄全体の将来を「復帰っ子」に託す人々の期待から遠ざかることになるだろう。

沖縄から日本の政治を考える

 国場さんの祖父が土台を築いた「沖縄の保守」は、翁長の晩年に象徴されるように揺らいでいる。歴代最長政権を享受しようかという安倍政権の下、沖縄への寛容さを失った「日本の保守」との間で、国場さんは「国益と県益の重なり」をどう見いだそうというのか。

 自身への叱咤か、政権への異議か、国場さんは静かに語った。

市街地に囲まれた米軍の普天間飛行場(手前)と嘉手納基地(奥)=3月。朝日新聞社機から
 「戦後日本の成功は、安全保障を米国に頼り、経済を重視した吉田茂首相の吉田ドクトリンによると言われます。でもそれは、日本から切り離された沖縄の米軍基地によるところが大きい。沖縄復帰後の日本には、いまだに新しいドクトリンがありません」

 「日本の中に沖縄があり、沖縄の中に日本がある。今もなお在日米軍基地が集中しているので本土からは見えにくいけれど、日本の政治を、沖縄から考えないといけないんです」

※次回は8月1日に公開予定です。