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原武史「米国は皇室に深く入り込んでいる」

男女差別、血統重視、米国傾倒…皇室の矛盾はますます露呈していく

石川智也 朝日新聞記者

一般参賀に集まった人たちに手を振る天皇、皇后=2019年5月4日、皇居・宮殿

 「令和」の英訳はbeautiful harmony(美しい調和)なのだという。聖徳太子の憲法十七条冒頭には「和をもって貴しとなす さからうなきを宗となす」とあるが、この「和」こそ日本人にとって、個の突出を抑え争いの顕在化を鎮める知恵であり続けた。首都東京のど真ん中にはそんな集団主義と同質性の象徴的空間があるが、もはや様々な文化と利害が衝突し分断の亀裂や断層が走る社会で、この禁域が発する磁力はどこまで通用するのだろうか。
 平成の時代に生じた国民と天皇との関係が新たな「国体」をつくりだした、と分析する原武史・放送大教授に、前回記事『原武史「平成は天皇制を強固にした」』に引き続き、「象徴」の未来について聞いた。

大正天皇の方が人間的だった

 ――右派や保守派は天皇の明確な元首化を求めていますが、新右翼や民族派の一部には、むしろ天皇は政治的権力から遠のき京都に帰って呪術の頂点、国民の守り神たる存在に回帰すべきだとの主張があります。昭和後期の皇太子時代から始まっていた「平成流」は、ある意味でその文化天皇制的なものが実現したものとは言えませんか。

 大元帥や統治権の総覧者としての天皇は変則的なもので、平安から江戸期のあり方こそ天皇制の本質という指摘でしょうが、平安から江戸期の天皇は南朝のような例外を除き、ほぼ京都に籠もっていた存在でした。大規模な行幸を繰り返してきたこととは、まったく矛盾します。先ほど(前回記事『原武史「平成は天皇制を強固にした」』で)述べたように、こうしたあり方は、むしろ平安よりも前の時代への「復古」です。

 それと、「第二の人間宣言」の話が出ましたが、「人間」というなら、大正天皇の方がむしろ人間的だったと言えます。

 明治天皇は後期になると基本的に軍事行幸しかやらなくなり、一般の臣民の前には姿を表さなくなります。「御真影」に描かれたような畏れ多い「大帝」のイメージが広がっていくわけですが、その代わりに沖縄県を除く全道府県を回ったのが皇太子嘉仁、つまり後の大正天皇です。

 これは明治天皇とはまったくキャラクターが違う。行啓の途中で学習院時代の級友の家を突然訪ねたり蕎麦屋に立ち寄ったりと、軽妙で、スケジュールも順路も平気で破る。そしてとにかくよく喋る(笑)。「この馬の血統はサラブレッドかアラブレッドか」とか冗談のようなことを次から次に。そのスタイルは天皇になってもなお続きました。

大正天皇嘉仁と貞明皇后節子の肖像画
 1913(大正2)年に皇后とともに伏見桃山陵に参拝に赴いた際に、大阪朝日新聞の記者が天皇と皇后の姿をこっそり撮影して掲載し、問題になったことがありました。内務大臣の原敬が監督不行き届きをお詫びに行くと、大正天皇は「是れには内務大臣も困るならん」(『原敬日記』)と一笑に付したといいます。

 こうした「大正流」がそのまま続いていたら、まったく違う天皇像ができていた可能性もあります。もっと軽い、現在の北欧の君主のようなスタイルになっていたかもしれない。でもこれでは、祭り上げようとしている下の者たちからしてみれば、あまりに権威がない。

 大正天皇は明治天皇と同じようなスタイルを強制され、自由を奪われていくうちに、だんだん体調を崩し脳の病気にもなり、最後には幽閉に近いかたちで事実上引退させられます。政府は皇太子裕仁を摂政に立てるため、活動写真などを通してその若くはつらつとしたイメージをアピールし、昭和になるとふたたび明治期のような天皇の権威化、神格化を進めていきます。1930年代から40年代にかけては、戦時体制への適合という要請もあり、また「重い」天皇像が復活するわけです。

 ――「平成流」は明治期や昭和初期の「復古」的天皇像を引きずっているという指摘は分かりましたが、それに気付いたとしても問題視できない空気がすでに形成されてしまっているのではないでしょうか。被災地をまわるその姿はメディアを通じて誰もが称賛しなければならないものと映るようになり、タブーや息苦しさを強めているようにも思えます。

 先ほどの大正天皇の話はもちろん、園遊会で山下泰裕に「柔道は骨が折れますか」と尋ねた晩年の昭和天皇と比べても、ユーモアが消えてしまいましたね。たとえ親しみを持たれてはいても、特に東日本大震災以降の仰がれ方は、やはりそれ以上のものを感じないわけにはいきません。

 古代・上代の行幸は君主の徳を四方八方に及ぼすという王土思想に基づくものですが、明治天皇の侍講となった元田永孚も昭和天皇の侍講の杉浦重剛も、儒教で普遍的な愛情を意味する「仁」を重視し、帝王学としてそれを天皇に講じます。理想の君主は民に等しく愛情を注ぐべきだとしたのです。

 そういう意味では、戦後に民主主義の教育を受けたはずの上皇明仁こそ、その理想を貫徹した最も儒教的な天皇とも言えます。

 でも、繰り返しますが、それは「人間的」なあり方でしょうか。人間であれば、大正天皇のように自由な行動がなければならない。そして、外出のたびに「神」とされた時代と変わらない過剰なまでの警備と規制が敷かれることも、ないはずです。

「リベラル」が天皇に期待するのは筋違いも甚だしい

 ――政府は新天皇の即位儀式に際して恩赦の実施を検討しています。明治憲法下では天皇の恩恵的行為とされましたが、国民主権となった戦後も昭和天皇の大喪や徳仁天皇の結婚時に実施されています。

 国家的慶弔という理論的、法的根拠をいくら示しても説明がつかない。皇位継承時に一律の恩赦を実施する意味合いは、けっきょく戦前とまったく変わっていないと思います。背景にあるのは、先ほど述べた儒教的な仁慈という考えで、恩赦はいまだに先帝の遺徳あるいは新天皇の徳を示すための装置ということです。現行憲法下でこうした慣習が続いていることに、法学者はなぜもっと声をあげないのでしょうか。

 ――多くの日本人が天皇に求めているものは「人間的」なものではなく、むしろ聖性を帯びた超越論的な存在ということですか。

 宗教学者の阿満利麿は「天皇は現人神でなくなっても、日常の延長に非日常的な存在を保っておきたいという現世主義的願望に支えられ、生き神であり続けている」という趣旨のことを述べています。日本人が天皇に対し、人としての親愛の情を超えた非日常的な作用を求めている限り、天皇が「人間」になることは今後もないということでしょう。

2018年11月27日、JR掛川駅

 ――少し別の角度から、天皇が果たしてきた役割を考えたいと思います。明仁上皇と美智子上皇后は日本国憲法の遵守の姿勢を明確にし、戦後民主主義とともに歩んできたとの印象が国民に共有されています。いわゆる「リベラル」側の人たちにもふたりへの共感は広がり、安倍政権の横暴を抑制するために、あるいは改憲を阻止するために、その防波堤機能を期待する声すらあります。

 ふたりの行動にはイデオロギーが希薄ですが、発言は寛容性を備えており、リベラルな知識人からもおおむね好感と称賛をもって迎えられています。知識人のなかにも、いまの皇室を民主主義の守護者のように思っている人は多い。

 しかし、民主主義を機能させるという本来政治が果たすべき役割を天皇や上皇にしか期待できなくなっているとすれば、極めて危うい状況です。内閣や国会を介さずに現在の政治のアンチと天皇がつながるのは、昭和初期の青年将校が抱いた超国家主義の理想に近い。「リベラル」が天皇にそうした権力や権威を期待するのは筋違いも甚だしい。

 ――明治政府は日本に国民国家らしきものをつくる際、統合の原理として天皇をもってきて、近代化に成功したとされています。GHQも敗戦時、安定した占領統治のために天皇を利用しましたね。それをさらに敷衍(ふえん)し、天皇制こそこの国で民主主義を可能にする条件だったとして積極的に評価する識者もいます。

 それは、明治以降の天皇制の歩みを単線的に捉えた不正確な認識だと思っています。

 近代天皇制を支える正統性はもっと多層的で複雑です。「万世一系」という血のフィクションにしても、南朝と北朝のどちらを正統にするかというやっかいな問題がありましたし、歴代の天皇は大正末期まで確定していませんでした。イデオロギーに見合う実態は、その段階まで未完成だったわけです。

 天皇の体調が悪化する大正後期からは、歴代天皇から外された神功皇后に思い入れをもつ貞明皇后の権力も無視できないものになっていきます。天皇の存在が常に社会や国家の中心や上位にあって、政治や国民を統合する機能を果たしてきたというわけではないんですよ。

 「みんな同じ日本人」という共同性も天皇がいなければ成立しなかったかといえば、必ずしもそうとは言えません。

 聖的な権威という意味でも、天皇が歴史の表舞台に登場した明治初期には、東西本願寺の法主や出雲国造など、それこそ「生き神」「生き仏」と拝まれるような巨大な宗教的カリスマが並立していました。出雲国造の千家尊福は西日本各地を巡教し、人々の崇拝の対象になっています。

 ――そのなかで天皇の権威だけが大きく広がったのは、形骸化していたとはいえ律令制の頂点にいたからですね。

 でも、それに関係した人はごくわずか。一般の人々にはほとんど存在感がなかったために、維新後に全国をまわってアピールする必要があったわけです。天皇が他と比べて特異だったのは、法主や国造が人々に説法したり積極的に語りかけたりするスタイルだったのに対し、基本的に無言でまわってときに御下賜金を与えるという方法をとった。つまり仁という徳で人々を感化するという儒教的なスタイルで、これが結果としてうまくいった。幕藩体制が崩壊して天皇がでてきてそこに権威が一気に一元化されたという単純な話ではありません。

 のちに「天皇制国家」と呼ばれるものは、行幸や教育やメディアによって紆余曲折を経ながら徐々にできていったものです。僕は、メディアが果たした役割が非常に大きいと考えています。

アメリカは皇室に深く入り込んでいる

 ――今年出版された赤坂真理の『箱の中の天皇』は、天皇を、あらゆるものを容れられる「空っぽの箱」に見立てています。これはロラン・バルトが『表象の帝国』で論じた「空虚な中心」とほぼ同じですね。ゼロ記号だから何をあてはめても機能する存在だった、といった意味ですが、1970年代から80年代にかけて、こうした記号論的、文化人類学的な天皇論が流行りました。でもこれは国内モデルを前提にしたもので、外国という「他者」の視点を欠いた内向きな分析だと思うんです。

 そのとおりです。しかも、天皇制を歴史的に見ず、極めてスタティック(静態的)に捉えたものですね。システムが不変のものとして存在しているイメージです。でも天皇が身体性を備えた人間である以上、天皇制は明治大正昭和平成と、代替わりを経るたびに大きく変わっています。

 ――平成の天皇論の多くも、「和をもって貴しとなす」を地で行った天皇の振る舞いに注目した内向きのものだったと言えるかもしれません。しかし実際には、天皇は海外では相変わらず先の戦争の清算の問題と切り離しては見られていない。そのことに自覚的だったのはむしろ現上皇かもしれません。

 行幸のもう一つの柱である「慰霊の旅」ですね。国外の目という視点では、僕が注目しているのはその訪問地です。上皇明仁は確かに言葉では植民地支配や戦争への反省に踏み込んでいます。でも国外で訪れた激戦地は沖縄、硫黄島、サイパン、パラオ、フィリピンと、1944年以降に日本が米軍と戦い負け続けた島々ばかりです。柳条湖、盧溝橋、南京、武漢、重慶、パールハーバー、コタバルといった、1931年以降に日本軍が軍事行動を起こしたり奇襲攻撃を仕掛けたりした所には行っていないんです。

 日本の戦争の全体がむしろ隠蔽されていると僕は思っている。

 ――それは、対アメリカという要素が突出しているということですか。

 そういうことです。上皇と上皇后が結婚後の1960年9月に最初に訪問した国はアメリカですが、これはアイゼンハワー大統領が来日できなかった代わりです。最初からアメリカとの関係が重視されている。

 上皇明仁は戦後、アメリカからやってきたヴァイニング夫人に教育を受けましたが、「アメリカ」は皇室に深く入り込んでいるわけです。それは言うまでもなく、戦争放棄とセットで天皇制を温存した憲法の設計者だからです。

1945年9月、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇。敗戦の現実を国民に実感させた写真として知られる。GHQ写真班(米軍)撮影
 ――東京裁判の起訴状は昭和天皇誕生日に提出され、A級戦犯7人の処刑は1948年12月23日、つまり皇太子明仁の15歳の誕生日に執行されています。これは戦勝国アメリカが天皇制に刻んだプログラムと言われています。

 昭和天皇はアメリカによって免責された自分の代わりに7人が犠牲になったことに、強い罪の意識を植えつけられていたと思います。確かに占領期の昭和天皇はカトリックに接近するなど、アメリカとは別のチャンネルを模索しましたが、結局は封じられた。つまりアメリカが新たな庇護者となり、日本の運命が牛耳られていくことを強く意識せざるを得なかった。

 そしてそれは上皇明仁にも引き継がれた。沖縄を11回も訪問したのは、父である昭和天皇が終戦直後に長期占領を認めるメッセージをアメリカに送っていたことへの負債感、贖罪意識もあったのではないでしょうか。

時代に合わない男女差別で成り立っている

 ――今後の天皇制について伺いたいと思います。「おことば」で明仁上皇は「これからも皇室がどのような時にも国民とともにあり」、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的につづいていくことをひとえに念じ」ると述べました。自ら定義した象徴の務めを新天皇にも望んでいるということですね。

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