原武史「米国は皇室に深く入り込んでいる」
男女差別、血統重視、米国傾倒…皇室の矛盾はますます露呈していく
石川智也 朝日新聞記者
アメリカは皇室に深く入り込んでいる
――今年出版された赤坂真理の『箱の中の天皇』は、天皇を、あらゆるものを容れられる「空っぽの箱」に見立てています。これはロラン・バルトが『表象の帝国』で論じた「空虚な中心」とほぼ同じですね。ゼロ記号だから何をあてはめても機能する存在だった、といった意味ですが、1970年代から80年代にかけて、こうした記号論的、文化人類学的な天皇論が流行りました。でもこれは国内モデルを前提にしたもので、外国という「他者」の視点を欠いた内向きな分析だと思うんです。
そのとおりです。しかも、天皇制を歴史的に見ず、極めてスタティック(静態的)に捉えたものですね。システムが不変のものとして存在しているイメージです。でも天皇が身体性を備えた人間である以上、天皇制は明治大正昭和平成と、代替わりを経るたびに大きく変わっています。
――平成の天皇論の多くも、「和をもって貴しとなす」を地で行った天皇の振る舞いに注目した内向きのものだったと言えるかもしれません。しかし実際には、天皇は海外では相変わらず先の戦争の清算の問題と切り離しては見られていない。そのことに自覚的だったのはむしろ現上皇かもしれません。
行幸のもう一つの柱である「慰霊の旅」ですね。国外の目という視点では、僕が注目しているのはその訪問地です。上皇明仁は確かに言葉では植民地支配や戦争への反省に踏み込んでいます。でも国外で訪れた激戦地は沖縄、硫黄島、サイパン、パラオ、フィリピンと、1944年以降に日本が米軍と戦い負け続けた島々ばかりです。柳条湖、盧溝橋、南京、武漢、重慶、パールハーバー、コタバルといった、1931年以降に日本軍が軍事行動を起こしたり奇襲攻撃を仕掛けたりした所には行っていないんです。
日本の戦争の全体がむしろ隠蔽されていると僕は思っている。
――それは、対アメリカという要素が突出しているということですか。
そういうことです。上皇と上皇后が結婚後の1960年9月に最初に訪問した国はアメリカですが、これはアイゼンハワー大統領が来日できなかった代わりです。最初からアメリカとの関係が重視されている。
上皇明仁は戦後、アメリカからやってきたヴァイニング夫人に教育を受けましたが、「アメリカ」は皇室に深く入り込んでいるわけです。それは言うまでもなく、戦争放棄とセットで天皇制を温存した憲法の設計者だからです。

1945年9月、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇。敗戦の現実を国民に実感させた写真として知られる。GHQ写真班(米軍)撮影
――東京裁判の起訴状は昭和天皇誕生日に提出され、A級戦犯7人の処刑は1948年12月23日、つまり皇太子明仁の15歳の誕生日に執行されています。これは戦勝国アメリカが天皇制に刻んだプログラムと言われています。
昭和天皇はアメリカによって免責された自分の代わりに7人が犠牲になったことに、強い罪の意識を植えつけられていたと思います。確かに占領期の昭和天皇はカトリックに接近するなど、アメリカとは別のチャンネルを模索しましたが、結局は封じられた。つまりアメリカが新たな庇護者となり、日本の運命が牛耳られていくことを強く意識せざるを得なかった。
そしてそれは上皇明仁にも引き継がれた。沖縄を11回も訪問したのは、父である昭和天皇が終戦直後に長期占領を認めるメッセージをアメリカに送っていたことへの負債感、贖罪意識もあったのではないでしょうか。