安倍首相と明仁上皇(上)
明仁上皇の思いは、安倍政権にはなく、沖縄とともにあった
佐藤章 ジャーナリスト 元朝日新聞記者 五月書房新社編集委員会委員長

「退位礼正殿の儀」で天皇陛下(当時)に国民代表の辞を述べる安倍晋三首相=2019年4月30日、皇居・宮殿「松の間」
明仁上皇と安倍首相の軋み
右翼団体「一水会」が安倍首相に対して怒りを表明している。「一水会」の公式ツイッターからその言葉をまず引用しよう。
安倍総理が、4月30日の天皇陛下の退位礼正殿の儀で「天皇皇后両陛下には末永くお健やかであらせられます事を願って已みません・・あらせられます事を願って(已)いません」とやってしまった。これでは意味が逆。問題は、官邸HPから映像削除したこと。潔く字を間違えたこと認め不見識を謝罪せよ。
次のツイートでこう言葉を継いでいる。
安倍総理の国民を代表しての挨拶だが、確かに滑舌の問題もあろう。しかし、一世一代の大厳粛なお役目を努める立場である。間違いがあってはならない。本来、自身が心情を込めた代表文を作成して準備万端にしておく。それが叶わなかったならば、一度、二度と確認は必要だ。慢心が不見識を招いている。
安倍首相が、退位する天皇と皇后の前で「国民を代表して」あいさつしたが、その際に「已みません」という文字を読めなかったのかどうか「いません」と発音してしまった。
これでは「お健やか」であることを願わないことになってしまい、戦前ならば「不敬」なこととして大きい騒ぎになっただろう。
さすがに「一水会」は「慢心が不見識を招いている」として「不見識を謝罪せよ」と糾弾しているが、明仁上皇に対する安倍首相の「慢心」、「不見識」はこれにとどまるものではない。「生前退位」を打ち出した明仁上皇がまさに退位するまで、安倍政権のほとんど礼を失するような対応が進行していた。
なぜ、このような事態が起こるのか。
憲法の第1章に置かれた「天皇」は神や現人神ではない。人間である。この日本で、「天皇」と呼ばれるただひとりの人間として、85年の人生をかけて「国民統合の象徴」(憲法第1条)の意味をひとり実直に考え続け、その地位からの「生前退位」の考えを初めて強く打ち出した。その明仁上皇の歴史認識、社会観、さらには人間観と、安倍政権のそれらとはあまりに深い逆断層を形成している。
自らの存在基盤である憲法の意味を考え続け、まさに「国民統合の象徴」として立ち続けてきた明仁上皇と、憲法の精神を省みず何度も違憲の疑いをかけられている安倍首相とでは、互いに相互理解の理路が欠けている。上皇関係者への取材なども踏まえて、その逆断層の構造を報告しよう。
明仁上皇の基本的な歴史認識と安倍政権のそれとが、深い地表下で人知れぬ激しいきしみを生じさせた事例をまず見てみよう。