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安倍首相と明仁上皇(上)

明仁上皇の思いは、安倍政権にはなく、沖縄とともにあった

佐藤章 ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

「主権回復の日」のハプニング

 2013年4月28日午前、それは、東京・永田町の憲政記念館のホールで起きた。

 第2次安倍政権が発足してほぼ4カ月が経ったこの日、政府主催の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」(主権回復の日)が開かれた。1952年の同日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本政府に主権が戻ってきたことを祝う式典だ。

 現在ユーチューブでもその様子を見ることができるが、登壇した上皇夫妻を取り囲んだ安倍晋三首相や麻生太郎財務相らが力強く「君が代」を斉唱した。

 その後、式典が終了し退席しようとしたその時、ハプニングが起きた。突然「天皇陛下、万歳」の声がかかり、会場は「万歳」の大声の渦となった。安倍首相も壇上で万歳三唱に加わったが、上皇夫妻の表情は硬く、沈黙したまま会場を後にした。

拡大「主権回復」式典に参列した天皇、皇后両陛下(当時)。式典が終わり退席する際、「天皇陛下、万歳!」の声が上がった=2013年4月28日、東京都千代田区

 突然の万歳三唱、そして硬い表情の裏には、実は明仁上皇の人知れぬ苦悩があった。

 万歳三唱どころではない。この式典に出席するべきかどうか思い悩んでいたのだ。

 式典出席の要請を受けて、明仁上皇は参与会議の議題にかけた。参与というのは天皇の相談役だが、この時、明仁上皇の疑問と苦悩に応えてくれる相談役はいなかった。

 「日本が講和条約を締結した時、沖縄はその中に入っていないじゃないか。沖縄が独立の中に入っていない状況で、それを記念するというのはどういうものだろうか」

 出席者の記憶では、明仁上皇の疑問は、このような言葉で表現された。

 疑問の背景には沖縄の歴史がある。1945年3月から6月にかけて悲惨きわまる地上戦が繰り広げられ、沖縄住民の約3分の1が犠牲になった。集団自決の例も数多く報告されている。

 そして戦後、講和条約からひとり取り残され、1972年まで米軍に統治され続けた。以来、沖縄県民は、米軍基地のために土地を奪われ、米兵の犯罪や米軍用機の事故に悩まされ続けた。県内では4月28日は「屈辱の日」と呼ばれ、2013年のこの日も、政府主催の記念式典と同時刻に、宜野湾市で「屈辱の日」大会が開かれた。

 つまり、この日付をめぐる明仁上皇の思いは、安倍政権にはなく、沖縄とともにあった。

 しかし、政府主催の式典への出席要請を断るとなれば、政権との対立を深めることになる。参与会議は深刻な空気に支配されたが、政権との衝突を回避する意見が大勢を占めた。

 出席を承諾した明仁上皇はやむなく、出席にあたって自身の意見を述べる意思を示したが、これも「おやめになった方がいい」という反対意見に阻まれた。沖縄県民の苦難の歴史に添いたいという心情は、ことごとく政権の意思を忖度する参与会議の壁に跳ね返された。コメントや挨拶なしの明仁上皇の沈黙の裏にはこのような事情があったのだ。

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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