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逆風に沈んだ麻生首相、未熟だった理念の鳩山首相

平成政治の興亡 私が見た権力者たち(16)

星浩 政治ジャーナリスト

会見で新内閣の閣僚名簿を発表する麻生首相=2008年9月24日、首相官邸

福田首相の突然の退陣

 2008(平成20)年9月1日、福田康夫首相が突然、退陣を表明。自民党内は動揺した。衆院議員の任期満了まで1年。その間には解散・総選挙がある。このままで選挙が戦えるのか。小沢一郎代表が率いる民主党に政権を引き渡すことになるのではないか。そんな不安が自民党をおおっていた。

 福田氏は「総選挙の顔」として麻生太郎・自民党幹事長を後継首相に推していたが、自民党内では異論も多かった。麻生氏に対抗して石原伸晃、小池百合子、石破茂、与謝野馨の各氏がそれぞれ20人の推薦人を得て、名乗りを上げた。総裁選の日程は9月10日告示、22日投票になった。

 その最中、世界経済を揺るがす出来事が起こる。リーマン・ショックである。9月15日、米国の金融市場の混乱を受けて、大手証券会社リーマン・ブラザーズが経営破綻。影響は世界中に広がり、日本も例外ではなかった。

衆院解散を先送りした麻生首相

街頭演説でそろって手を挙げる自民党総裁選の候補者=2008年9月13日、大阪市中央区
 その混乱のなか、行われた総裁選(国会議員と地方代表が参加)の投票結果は、麻生氏351票▽与謝野氏66票▽小池氏46票▽石原氏37票▽石破氏25票。麻生氏の圧勝だった。

 麻生氏は24日に召集された臨時国会冒頭で首相に指名され、同日中に麻生内閣が発足した。官房長官には、麻生氏と文教族仲間の河村建夫氏が起用された。また、少子化担当相に小渕優子氏、消費者担当相に野田聖子氏、農水相に石破茂氏など、総選挙を意識して人気の高い閣僚が並んだ。自民党幹事長には幹事長代理だった細田博之氏が昇格した。

 リーマン・ショックの影響で株価は低迷。米国のブッシュ(子)大統領から、主要先進国に中国、インドなどの新興国を加えた「G20」を創設し、世界経済の立て直し策を話し合いたいという提案が寄せられた。「G20」は11月15日にワシントンで初会合を開くことになった。麻生首相は経済対策を重視し、解散の先送りを決定。福田氏が想定していた早期解散による政局の転換はできなくなった。

秘書逮捕で小沢一郎氏が民主党代表辞任

 年が明けて2009年。通常国会は、衆院の解散・総選挙をにらんで与野党が全面対決する舞台となった。2月5日の衆院予算委員会で、麻生首相は郵政民営化について「賛成ではなかった」と答弁。小泉純一郎元首相は「怒るというより、笑っちゃう」と反論し、自民党内の混乱をさらけ出した。

記者会見で民主党代表の辞任を表明する民主党の小沢一郎代表=2009年5月11日、東京・永田町の同党本部
 さらに、予算案審議の責任者である中川昭一財務相が不祥事を起こす。2月14日、ローマで開かれた国際会議に出席していた中川氏は、記者会見の席で朦朧(もうろう)として呂律(ろれつ)が回らない。酒好きで知られる中川氏だから、会見前に飲酒していたという疑惑が出た。本人は否定したが、野党側は納得せず、中川氏は帰国直後に辞任。財務相は与謝野経済財政相の兼務となった。

 野党の民主党は勢いづいたが、その矢先に、こんどは検察が動いた。3月3日、東京地検特捜部は小沢代表の公設第一秘書を政治資金規正法違反の容疑で逮捕。小沢氏の事務所などを家宅捜索した。小沢氏の政治資金管理団体「陸山会」に、中堅ゼネコンの西松建設から不正な資金提供があったというのだ。小沢氏の責任をめぐって民主党内は混乱。自民党内ではこの機に衆院解散に打って出るべきだという意見が出たが、麻生首相は踏み切れなかった。

 大型連休明けの5月11日、小沢氏は秘書逮捕の責任をとって代表辞任を表明。民主党は後継選びに入った。小沢氏の支援を受ける鳩山由紀夫氏と「脱小沢」をめざす岡田克也氏が立候補。党内を二分する激しい争いとなった。

任期満了回避が精いっぱいの麻生首相

 16日、国会議員のみの投票が行われ、鳩山氏が124票、岡田氏95票では鳩山氏が新代表になった。党内最大勢力を握る小沢氏が、鳩山陣営にテコ入れした効果が票差に表れた。

 鳩山代表は岡田氏を幹事長に据えて、「党内融和」を呼びかけたが、小沢氏も筆頭代表代行として処遇。選挙の公認や資金配分などの実権は小沢氏が握り続けた。民主党は、この代表選で露呈した「小沢対反小沢」の党内対立を、その後も抱え続けることになる。

 党の顔を鳩山氏に替え、民主党はさらに攻勢を強めた。7月12日投票の東京都議選では定数127のうち54議席を獲得(20議席増)、第一党に躍進した。自民党は10議席減の38議席にとどまった。

 自民党への逆風は明らかだった。しかし、麻生首相には打つ手がなく、衆院が任期満了(9月10日)で総選挙となる事態を避けるのが精いっぱいだった。7月21日、衆院は解散され、選挙は8月18日公示、30日投票と決まった。

日本政治の分岐点となった2009年総選挙

 この総選挙は文字どおり、日本政治の分岐点となった。

 昭和から平成に代わったころから、日本の政治は二大政党が競い合う制度を模索。政治改革によって衆院に小選挙区制が導入された。政治に緊張感がもたらされ、政権交代が起きやすい制度といわれた。小選挙区制による総選挙は、1996年、2000年、03年、05年と実施されたが、政権交代は起きず、野党の離合集散が繰り返された。

 公明党との連立や小泉純一郎首相の「絶叫」で生き延びた自民党だったが、本来、小選挙区は非情な制度だ。政権与党が成果を出せなければ、野党が一気に多数を占めて政権を奪取することになる。オセロゲームのような総選挙が始まった。

 民主党の小沢代表代行は、民主党が大勝した07年参院選の再現を狙った。得意のコントラスト作戦を展開。森喜朗、福田康夫両元首相ら長老には、対照的な若い女性候補をぶつけてみせた。また、公明党の冬柴鉄三・元幹事長の対抗馬には、小沢氏と親しい新党日本代表の田中康夫元長野県知事を擁立し、メディアの関心を集めた。

 この総選挙は、各党がマニフェスト(政権公約)を競う場ともなった。民主党は①中学生以下の子どもに月2万6000円の手当てを支給②公立高校の実質無料化③農漁業に個別所得補償制度④高速道路の無料化、などの政策を打ち出した。自民党は①高校・大学に新たな給付型奨学金制度を創設②10年間で家庭の手取りを100万円増やす、などを打ち出したが、民主党に比べ、地味な内容だった。

 選挙戦のさなか、民主党の鳩山代表は沖縄の米軍普天間飛行場の移設問題について「最低でも県外」と繰り返した。この発言が、やがて自分に重くのしかかるとは、そのときは本人も自覚していなかった。

政権交代を生んだ要因は

大量に当選した候補者の名前に笑顔で花をつける民主党の鳩山代表=2009年8月31日、東京都港区の党開票センター

 8月30日に投開票。定数480のうち、民主党は308議席を獲得。自民党は119議席にとどまった。1955年の結党以来、自民党は初めて、衆院で第一党の座を明け渡した。以下、公明党21議席、共産党9議席、社民党7議席、国民新党3議席などだった。

 政権を担うことが確実になった民主党の鳩山代表は9月9日、社民党の福島瑞穂党首、国民新党の亀井静香代表と党首会談を行い、民主・社民・国民新党の連立政権を結成することで合意した。

 平成が後半にさしかかったこの時期に、歴史的な政権交代が実現した原因は何だったのか。総選挙中に聞いた鳩山氏の体験談が印象深い。

 青森県八戸市で演説していたら、最前列にいた女性が泣き出した。話を聞くと、「仕事が見つからないので帰省していた息子が自殺しました。こういう政治、どうにかなりませんか」と訴えてきた。鳩山氏は「言葉を失った」そうだ。大都会の繁栄をよそに、苦労を抱える人々。その反乱が政権交代を生んだ大きな原因だろう。

 振り返れば、冷戦後のグローバル化で、安価な外国製品が流入し、工場は海外へ移転、非正規労働者が急増した。これに対し、小泉純一郎政権は規制緩和、公共事業削減といった新自由主義的な政策を打ち続けた。それでも派手なパフォーマンスで人気を博した。格差が広がり、政策の修正が必要だったのに、自民党は柔軟さを欠いていた。

 続く安倍晋三政権は、政策の修正をしきれずに退場。福田康夫政権は、民主党との大連立で打開しようとしたが、頓挫した。麻生太郎政権は、リーマン・ショックも加わり、為す術がなかった。自民党が下野するのは必然だった。

暗闘の末、幹事長になった小沢一郎氏

 9月16日には特別国会が召集され、鳩山氏が首相に選出された。ただちに新内閣の組閣が行われ、官房長官には平野博文、副総理・経済財政相には菅直人氏、財務相には藤井裕久の各氏が就任。亀井静香氏は金融・郵政改革担当相、福島瑞穂氏は消費者担当相に就いた。

記者会見する岡田克也外相=2009年9月17日、東京都千代田区霞が関
 組閣に先がけて、民主党の幹事長ポストをめぐって、暗闘が繰り広げられた。総選挙を幹事長として取り仕切った岡田克也氏は続投を希望。「小沢氏に幹事長を渡せば、党を乗っ取られる。表の政府を裏の党がコントロールする二重構造は良くない」というのが岡田氏の主張だった。しかし、小沢氏は幹事長ポストにこだわった。菅氏は岡田氏を支持したが、最終的には鳩山代表の判断で小沢幹事長が決定。岡田氏は外相に回った。

 党の政策調査会をめぐっても綱引きがあった。民主党は政権をとったら党の政策調査会を活動休止として、政策決定は内閣に一元化すると公約していた。自民党の政策決定が政務調査会と内閣の二本立てとなっていることへの対案でもあった。

 実際に政権交代を実現すると、菅氏は政策調査会を残し、自分が政調会長を兼務して内閣に入る構想を描いていた。だが、小沢氏は政策調査会を廃止し、政策決定は内閣に一元化、選挙や国会運営などの党務は幹事長がすべて取り仕切ることを提案した。執行部内の議論は紛糾したが、最終的には鳩山代表の判断で政策調査会は廃止となった。

 これが民主党の内紛の火種となる。衆参400人ほどの民主党国会議員のうち、閣僚、副大臣、政務官などで閣内に入れるのは80人程度。それ以外は政策決定には直接、関わることができない。それが、やがて鳩山首相や菅直人副総理らへの不満を募らせ、小沢氏の勢力拡大につながる。その結果、党内対立が深刻になっていく。

内閣支持率7割、滑り出しは好調な鳩山内閣

自民党の新総裁に選ばれた谷垣禎一元財務相=2009年9月28日、東京・永田町の党本部
 一方、下野した自民党はどうなっていたのか。

 麻生総裁の後継を決める総裁選には、谷垣禎一、河野太郎、西村康稔の3氏が立候補した。9月28日、国会議員と地方党員による投票が行われ、谷垣氏が300票を獲得。河野氏(144票)、西村氏(54票)を引き離して当選した。谷垣氏は幹事長に大島理森氏を起用、党の再生を誓った。しかし、国会近くの党本部を訪れる陳情客の姿はまばらで、政策を説明する官僚は、局長級から課長級に格下げされていた。

 鳩山首相は9月21日、ニューヨークに向けて出発。国連総会などで外交デビューを果たした。オバマ米大統領、胡錦濤・中国国家主席らと次々と会談し、日本の政権交代をアピールした。さらに国連気候変動サミットでは、日本の温室効果ガス排出について、2020年までに1990年比で25%削減をめざすという意欲的な中期目標を明言。欧州各国などから高く評価された。

障害者のファッションショーの会場に到着した鳩山首相=2009年10月3日、東京都渋谷区
 10月26日には臨時国会が召集され、鳩山首相は就任後初となる所信表明演説を行った。子ども手当の創設、高校の実質無償化などマニフェストで打ち出した政策を並べたうえで、「一人ひとりの居場所のある社会」「コンクリートから人へ」といったスローガンを強調した。各種世論調査では、内閣支持率が7割にのぼり、政権の滑り出しは順調だった。

 11月11日には、民主党が歳出削減の目玉と位置づけてきた「事業仕分け」が始まった。蓮舫氏や枝野幸男氏ら「仕分け人」が、各省庁や外郭団体の事業の点検を進めた。「この補助金は必要なのか」「天下りは何人いるのか」といった追及がテレビで放映され、喝采を浴びた。それでも、約450件が仕分けされた結果、歳出削減につながったのは約6900億円。、民主党のマニフェスト実現に必要な初年度約7兆円には遠く及ばなかった。

「あなたは平成の脱税王だ」

 12月には鳩山首相の政治資金問題が発覚。献金者の名簿にすでに死亡した人の名前があるなどの問題が明らかになり、東京地検特捜部は経理担当だった元公設秘書を在宅起訴した。捜査の過程で、鳩山氏が母親から毎月1500万円の贈与を受けていながら納税していなかったことが判明。年間1億8000万円、6年で約11億円が申告されておらず、鳩山氏は修正申告して、約6億円を追加納税した。自民党の与謝野馨氏は衆院予算委員会で、鳩山首相に向かって、「あなたは平成の脱税王だ」と批判した。

小沢一郎氏の団体の土地購入問題で逮捕された民主党の石川知裕衆院議員=2010年1月10日
 年が明けて2010年。東京地検特捜部は1月13日、小沢氏の事務所などを家宅捜索した。小沢氏の政治資金管理団体「陸山会」の土地購入に絡む政治資金規正法違反(不記載)の容疑だった。特捜部はさらに15日、小沢氏の元秘書の石川知裕衆院議員の逮捕に踏み切った。23、24両日には小沢氏本人から事情聴取。小沢氏本人の関与が焦点となったが、特捜部は嫌疑不十分で不起訴処分とした。しかし、その後もこの問題は検察審査会に持ち込まれ、小沢氏は政治資金疑惑を抱え続けることになる。

普天間飛行場の移設問題で致命傷、退陣へ

 鳩山首相にとって致命傷となったのは、米軍普天間飛行場の移設問題だった。自民党政権下で辺野古への移設が決まり、準備が進められていたが、鳩山氏は総選挙のさなかに「最低でも県外」と表明。民主党の「公約」と受け止められていた。

 しかし、米政府は既定方針通り、辺野古への移設を進めるよう要求。海兵隊の訓練場として鹿児島県の徳之島など代替地も検討されたが、いずれも拒否された。鳩山首相は5月4日、沖縄県を訪問。仲井真弘多知事と会談し、「日米同盟や抑止力との観点から全てを県外というのは現実的には難しい」と述べ、県外移設断念を伝えた。鳩山氏は「学べば学ぶにつけて、沖縄の米軍が連携して抑止力を維持していると分かった」とも述べた。安全保障についての基本的な認識ができていないことを露呈した。

民主党両院議員総会で唇をかみしめながら辞任のあいさつをする鳩山由紀夫首相=2010年6月2日、国会内
 日米両政府は28日、普天間飛行場の移設先を辺野古とする共同声明を発表。日本側はこの共同声明を閣議了解することになっていたが、社民党代表の福島瑞穂消費者担当相が署名を拒否。鳩山首相は福島氏を罷免した。社民党は30日、連立からの離脱を決めた。

 行き詰まった鳩山首相は退陣を決意。小沢幹事長と会談し、2人がともに辞任することになった。6月2日の両院議員総会で退陣を表明した。喝采を浴びて政権がスタートしてから8カ月余。持論である「友愛」など理念を語ることは多かったが、現実の政権運営の未熟さをさらけ出した。民主党は後継の代表・首相選びに入るが、党内対立はいっそう深まっていく。

 鳩山氏が首相在任中、何度か単独で取材する機会があった。鳩山氏は普天間問題に関連して「私は米スタンフォード大で学んだこともあり、米国が大好きなんです。オバマ大統領も普天間の県外移設は理解してくれるはず」と話していた。ただ、米国は、安全保障という国の根幹に関わる問題では、冷徹に実利を重視する。「理念」だけでは通じない。そういう重い「現実」を理解していなかった。

次回は、東日本大震災で動揺する菅政権と後継の野田政権を描きます。5月25日公開予定。