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変な党名から見えた細川護熙氏の新・新党への執念

元参院議員・円より子が見た面白すぎる政治の世界⑨細川さんの拍子抜けする穏やかさ

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

野党統一会派構想合意を前に手を握り合う、(左から)民主改革連合・笹野貞子、国民の声・鹿野道彦、新党友愛・中野寛成、民主・菅直人、太陽・羽田孜、フロムファイブ・細川護煕の各党首。会派名は「民主友愛太陽国民連合」(民友連)と決まった=1998年1月7日、東京永田町のホテル

下呂温泉旅行のほんとうのねらい

 1997年11月末、細川護煕事務所の永田所長(元日本新党の事務所長)らと私は、岐阜の下呂温泉に旅行する。私の信頼する政治の仲間で医師である小嶋昭次郎さんの誘いで、連合の逢見直人さん、元日本新党政策副委員長の安藤博さん、私の秘書の太田京子さんらの7人だった。

 私の参議院の選挙特(政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会)委員長就任の遅まきながらの祝いを兼ねていたが、永田さんには実は別の目的があった。それは6月にたった一人で新進党を離党した細川さんが、年内に新党を立ち上げるにあたって人が足らず、どうしても私を仲間に入れたい、というもくろみであった。

 細川さんに追随して離党した樽床伸二衆院議員と、上田清衆院議員(現埼玉県知事)、江本孟紀参院議員の3人は確保できたが、参加すると言っていた北橋健治衆院議員(現北九州市長)が抜けたという。最低5人いれば、新党として政党助成金も受け取れ、次の政局へのうねりをつくれる。羽田孜さんらがとび出した後の小沢新進党では自民党に対抗できないと考えていた細川さんは、97年の6月に離党した時から動いていたが、拠点となる党づくりができない。そこで、私に白羽の矢が立ったわけだ。

日本新党の元所長永田さん(写真中央)が、細川さんのために私円より子を離党させるねらいで企画した下呂温泉の旅。右端が連合の逢見直人さん=1997年11月30日(筆者提供)
 私は、細川さんが新進党を離党した時から、共に行動することを決めていた。しかし、1年後には選挙がある。比例で当選するには、新進党のような大きな組織がないと難しい。もう少し様子を見るべきだという永田さんたちの意見に従っていた。

 下呂温泉ではしかし、細川さんから頼まれていたにも関わらず、永田さんは私に引導を渡そうとしなかった。新進党にいたほうが、参院選で当選する可能性が高いのに、離党してくれというのは、議員をやめてくれというのに等しい。永田さんはそう考えて、言えなかったという。

 私は、細川さんが「あと1人」で困っているのを知っていたから、名古屋で別れる寸前に、永田さんに言った。

 「細川さんが新党をつくられるなら、私は参加します。細川さんが日本新党をつくられたから議員になれた私ですもの。ついていくのは当然です」

離党したとたんに新進党が瓦解

 12月18日、新進党の党首選がホテルオークラで行われた。小沢一郎さんと鹿野道彦さんの一騎打ちで、結果は小沢230、鹿野182。再び小沢さんが党首に選ばれた。翌日、木幡弘道衆院議員ら、細川さんと行動を共にしたい日本新党系議員と私は、国会図書館の会議室に密かに集まり細川さんと会談した。それが夕刊に、「細川さんが新党結成」とすっぱぬかれる。

 12月22日、私は西岡武夫幹事長に離党届を出した。西岡さんが「円さん、ありがとう」というから驚いたが、それは「小沢の悪口ばかり言って離党する輩ばかりのなか、あなたはきちんと政策が合わないと理由づけてくれているし、新進党ではなく、日本新党の比例で当選した人だからね。離党は残念だけど届を受理します」ということだった。

 離党の記者会見を行った後、私は各議員の事務所をまわったが、みんな大騒ぎになっていた。仲の良かった伊藤英成衆議院議員は私を議員室の応接室に招き入れ、「円さん、あなたの離党前に、新進党自体がなくなる」と沈痛な面持ちだった。

新進党が6党に分裂。「自由党」の党名を発表する小沢一郎氏=1997年12月30日、東京都港区
 新進党は、小沢、鹿野の両氏が党首選を争うかなり前から、羽田、細川両元総理の離党や自民党による引き抜き工作で求心力を失いつつあったのだが、小沢執行部が自民党との大連立構想を模索したため、反対論が吹き出していた。求心力を失っていた小沢さんは、再選されるやいなや、27日の両院議員総会で新進党の分党と新党の結成を宣言したのだ。この総会には、既に離党していた私は出席していない。

 この後、小沢さんは自由党を結成。党首選で敗れた鹿野さんは「国民の声」を結党して党首になった。民社系は「新党友愛」、公明系は「新党平和」と、新進党は四分五裂してしまったのだ。

党名が「フロムファイブ」になったわけ

 細川さんや私は新しい党「フロムファイブ」を立ち上げ、年末から翌1月まで国会近くのキャピトル東急に集まっては、他党との連携を探っていた。

フロムファイブの5人。左から樽床伸二さん、円より子、細川護熙さん、上田清さん、江本孟紀さん=1998年1月23日(筆者提供)
 フロムファイブなんて変な党名という人が少なくない。初めて5人で集まったとき、「党名どうしましょうね」と細川さん。「ノルウェー語でフラムというのは出発という意味で、バイキングが荒海に乗り出す感じ。そんな名前も面白い」と私が言うと、「英語のフロムと同じ語源なら、5人だからフロムファイブか」と樽床伸二さんが応じる。それでなんとなくフロムファイブに決まってしまった。

 細川さんは、日本新党時代、機関紙コムネット編集長の私に「編集会議のメンバーに入れてほしい」といってきた人だ。元朝日新聞の記者というだけでなく、言葉遣いや、文章に一家言を持っている。その人が余りにもあっさりと、思いつきで口にした党名を了承した。細川さんはこの党に全くこだわっていない。先を見ているのだと直観した。

 新進党の分裂で、熾烈(しれつ)な新・新党結成の動きが始まっていた。首謀者の一人はもちろん細川さん。そして、フロムファイブはついに一度も準備された党本部に入ることなく終わる。フロムファイブも参加して民政党、さらなる大同団結で民主党ができたからだ。私が感じた通り、フロムファイブはそのためのつなぎだったのだ。

権力掌握がすべて。小池百合子さんのすごみ

 細川さんは一人でも多く、仲間を集めてほしい、誰と誰に会ってほしいと昼夜なく私に電話してきたが、その中に小池さんの名はなかった。彼女はとうの昔に、細川さんより小沢さんに近づくようになっていたからだ。細川さんの総理在任中は、妻の佳代子さんが熊本に帰った留守を狙って公邸に会いに行くと、週刊誌に書かれたりした小池さんである。小沢さんのときはしょっちゅうゴルフを共にし、飲む時は平気で小沢さんのひざに座ると悪口を言う記者もいた。

 そうしたことから、「女の武器」を上手につかうと噂されたが、私はそうは思わなかった。小池さんは美人でコケティッシュに見えるが、男っぽい気性の持ち主。女性蔑視の強い週刊誌など一部のメディアは、通俗的な見方で彼女の本質をとらえず、おもしろおかしく書くが、彼女は権力を握ることを最大の目的にし、そのために使える人は使うということを徹底しているだけだと私は思っていた。

 政治の世界は権力がすべてのところがある。私のように、子どもの人権や教育機会の均等をどんなに誠実に希求し、質問しようが、実際に権力を持たないと何もできない。

 フルシチョフがスターリンに気に入られるために、自分の信条を押し隠して、首相にのし上がったように、政策など二の次で、まず権力を握る必要があるというのが政治だ。小池さんはまさにそれを地で行く女性だと私は思っていた。だから、2017年の希望の党の失速は、小池さんの思い上がりというより、誰かはわからないが、大きな力に利用されたと私は思うのだ。

 それはともかく、小池さんが衆議院に鞍替えしたことで、参議院議員になれたのだから、私は彼女に感謝していた。だが、彼女は松崎さんの除名によって私が繰り上げ当選になることを悟ったとき、鞍替えしたことを「しまった!」と言ったらしい。それを真横で聞いていたという細川さんに近い人から25年後に私は知らされ、「円さんは甘いわね」と言われたものだ。

忘れられない奥田敬和さんの一言

 紀尾井町にかつて赤坂プリンスホテル、通称「赤プリ」があった。地下1階の寿司屋たちばなや中華の李芳、ステーキの近江などでは、国会から近いこともあり、国会議員がよく食事をしたり、会合を開いたりしていた。

 その赤プリで民主党の結党大会が開かれたのは1998年の4月27日(月)。7月の参議院選まで3か月を切っていた。

 ここで結党大会までの経緯を振り返っておきたい。前年の1997年末にフロムファイブを作った細川さんと私たちだったが、同時に新進党が解体、四分五裂したことは先に触れた。細川さんは迅速に動き、1月23日には羽田さんらの太陽党、鹿野さんの国民の声と合流、民政党を結党。赤プリと文芸春秋社の間にある剛堂会館の5階を本部にした。

 余談だが、今も私は「女性のための政治スクール」開催のため月に一度、この剛堂会館1階の貸会議室を借りている。そのたびに往時を思い出し、懐かしさがこみあげる。畑英次郎さん(細川内閣の農水大臣)、奥田敬和さん(自民党で郵政・自治・運輸大臣等を歴任した七奉行と言われた一人)といった大先輩の顔が浮かぶのだ。

奥田敬和さん=1997年4月16日
 ある日の議員総会で、奥田さんが最後に放った言葉を私は今でも忘れられない。総会では、日本新党系の藤村修さんや山本孝史さん、また自民党系の岡田克也さんがいろいろ意見を言い、毎回議論があちこちにいって時間がかかっていた。

 「君たちは10分で終えられる会議をよくまあピーチクパーチクしゃべるよな。時間をかけたらいいってものではないことを少しは勉強しろ。まるで小学校の学級会だ。これでは政権はとれん」

 奥田さんは背の低い、やせた人である。しかしその姿は威厳に満ちていて、誰も一言も異を唱えなかった。学ぶことの多い保守中道の民政党だったと思う。

 だが、民政党はたった3か月でその使命を終える。菅直人さんと鳩山さん兄弟(由紀夫、邦夫)がつくった旧民主党と、民政党、新党友愛、民主改革連合が合流し、新しい民主党になったからだ。

 旧民主党からは枝野幸男さん、新党友愛から川端達夫さん、民政党からは岡田克也さんが協議を重ね、基本理念をまとめた。新民主党は「行政改革」「地方分権」「政権交代」を掲げ、自民党に代わる政権政党となることをめざすことになった。

民主党の行く末に不安を感じた結党大会

 話を戻す。

 赤プリで開かれた結党大会は熱気にあふれていた。参院選の候補者として私も紹介されるため、岐阜からは先述した小嶋さんが上京、私の親友の映画評論家萩尾瞳さんや産経新聞の高橋美幸さん、熊本の天草市長安田公寛さんら友人知人が大勢参加してくれた。

 しかし、そこで私にはどうにも解せぬことが起きたのである。

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