「義務感で障害者と生きるのは理想的社会とは言えない」と問う学生に、私は答えた
2019年05月26日
*この記事は筆者が日本語と韓国語の2カ国語で執筆しました。韓国語版(한국어판)でもご覧ください。
すでにご存じの読者もおられようが、筆者は幼い頃から車椅子や松葉杖を利用する重症の脚部障害をもっている。
社会生活をしながら、時々思う。もしかしたら自然災害やその他の災害が発生したとき、動作が不自由な筆者のせいで家族や周囲の人たちがより大きな危険にさらされるかも知れない、そのときには、本来ならリスクを克服する確率が高いはずの彼らにだけは、なんとか無事でいてほしいものだ、と。
東京での生活を開始してすぐのこと、居住地を管轄する区役所で特別な名札のようなものを支給された。「ヘルプカード」(help card)と呼ばれるそれを受けとるとき、このような説明を受けた。
自然災害であれ、その他なんでも緊急事態がおこれば、このカードを胸につけて、誰にでも手を差し出して救いを求めてください。消防士、警察、その他の公務員、ボランティアだけじゃなく、周りの誰にでもそうしてください――。
もちろん、大規模な災害のときは筆者を担当する公務員が駆けつけてくれるのだが、その前にでも無条件に社会の助けを求められるのだと教えられた。
「私は独りではたいへんなので、助けてください」
このカードは周囲にそのように話しかけてくれる。そうすればもちろん状況にもよるが、可能な限り優先的に支援を受けることができるという。
いつか日本人の友人と話していたとき、地震の話がでた。その友人は冗談半分、真面目半分で筆者にこう言った。
「実際のところ、その時には僕よりもあなたが生き残る確率がはるかに高い。この社会には最弱者が最優先されるという約束事があるからね。もしあなたを助けなければ、周囲の人間は他の十人が犠牲になったよりもずっと残酷な喪失感を覚悟しなければならない。そのことがもたらすコミュニティの傷は言葉にできないほどなのだよ」
筆者の胸はビリビリと震え、キュンとしたが、せっかくのその話を否定しながら、「ちょっと、ちょっと、それはどうだか。差し迫った状況になってみなければわからない」と、友人の言葉をさえぎった。
しかしもちろん、心のなかは温かくなった。うそいつわりなく、いつも筆者は、それがどのような災害の状況であれ、韓国でも日本でも、筆者のために他の人が困難な目に遭う必要はなく、自分で自分を救う能力が一番不足している筆者が最初に死ねばよいのだと堅く覚悟して生きてきたのだった。
韓国で数年前に起きたあの「セウォル号事件」で、すぐ忘れ去られたニュースがある。
乗客を動けないようにしておいて、自分たちだけが先に緊密に連絡をとりあいながら船を捨てて出ていった乗組員、彼らは遠く離れた仲間とも通信して、自分たちだけの秘密の通路を利用して一糸乱れずに船から逃げた。
ところが、その義理堅く、卓越した逃走劇のなかで、病気の仲間だけは捨てて逃げていったというのである。
一瞬ある想像が頭をかすめた。
障害を抱え生きる筆者がそこに乗っていたら…。
乗客ではなく乗組員だったとして…。
ゾッとする気分だった。
しかし、そのような気分はすぐに葬り去ることができた。その船ではたくさんの明るい高校生たちが不当にも死を余儀なくされたわけだが、(不謹慎かもしれないが)そこでは障害もなにも関係なく、皆が海に、空に一緒に行くことができた、それがせめてもの救いだったように思えた。
国家のレベル、いわば「国格」とは、なにをもって判断することができるのだろうか。
GNPやGDPによってか? G7やOECD加盟国であることか? そもそも先進国という言葉が、経済や貿易の規模で測定できるといえるのだろうか?
もちろん経済的に豊かな国の人権状況が相対的により良いのは事実である。
しかし、真の「国格」は、その社会の中で最も弱い人々、すなわち「マイノリティ」たちがどのような待遇を受け、どのような状況に置かれているのかによって最終的に判断されることが正しいのかもしれない。
民主主義への渇き、人権に重点を置き、生命と自然環境の改善を叫ぶこと、そして平和と反戦、独裁政権に対する抵抗といった正義に向けた行進は、そのすべてが、社会の強い階層、つまり自己の安全と幸福を自ら守り享受することができる人々のためだけのものではない。
それはその社会の最弱者の立場を、人間らしい生き方ができるだけの状況に引き上げるための闘いであってほしい。歴史もまた、そのような基準で記録され、解析されなければならないだろう。
その最弱者の最も具体的な一例が障害者である。
一国の「国格」は決して政治家たちの作為的なジェスチャーや偽善めいた言葉、国際的な儀典の格式、勢いのある企業のロゴマークによってあらわされ、評価されるものではない。その国の社会が最も弱い層としての障害者たちへ、どのような配慮をみせるかという基準でみれば正確に測定されるのではないか。
そして、韓国はいまだ残念極まりない状況だというのが現実である。いつかのこと、日本の友人が質問した。
「韓国は経済も急成長して、先進国に加わったし、また特にアジアではキリスト教最強国だから、身体障害者に対する待遇も世界最高レベルなのでしょう?」
そのとき筆者は、決してそうではない、と答えようとして、ついに声が出なかったことをいまも覚えている。
大学の同僚教員のクラスの生徒が、課題として「障害者の生活の国別の違い」をテーマにグループで研究するということで、筆者にインタビューに来たことがある。学生四人と研究室で長時間にわたり真剣に話を交わした。
障害者について調べようとする学生たちは、実際に障害者の教員に会ってインタビューをするということで、最初は非常に緊張した様子だった。なにを質問するのか、どのように丁寧に自分の意見を話せばいいのか、わかりかねているようだった。
もちろん、それに気付いた筆者が、若い学生の緊張を解きほぐし、彼ら彼女らがなにを聞きたいかは察しが付いたので、質問を先取りして自問自答するように答えていった。だんだん学生たちの顔には安堵の色が浮かび、むしろ筆者と話をすることが楽しくなったようでさえあった。
筆者は自分の体験から障害者に関する重要な考えや経験を話した。韓国と日本、アメリカなどで経験した実例を挙げ、現場で筆者が直接感じたことを詳細に説明した。学生たちにはすこし勇気がうまれたようだった。
そして、インタビュー後半の質問が傑作だった。話のまとめとして、学生たちは筆者につぎのような印象的な言葉を発したのだ。
「先生、日本でも韓国でも、どんな国であっても、私たちがいまの社会システムのなかで、ただ義務感のようなものだけにもとづいて障害者と生きていくのでは、根本的にともに幸せに生きていく理想的な社会であるとはいえないように思えるのですが、先生はどうお考えですか?」
また、続けて、「私たちは障害者になにをしてあげることができるか、その人たちがなにをしてほしいかをたくさん考えたいと思います。だけど、そうしてたくさんのことをしてあげることがむしろ申し訳ないことのように、負担ではないかと思うことがあります。先生はどのように思われますか?」と。
学生たちは彼らなりにいろいろと考えていたようだ。
それに対する筆者の答えは、あるいはすこし的外れなものであったのかもしれないが、つぎのように答えた。
まず、教育と経験が重要だ。幼い頃から障害者と友人のように遊んで、勉強して、生きていく経験を持った人々が一番レベルの高い障害者に対する専門家になれる。彼らこそが障害者とともに幸せに生きていくための方法を体得する。
それは筆者が普段から考えていることである。障害者関連の専門領域を専攻し、その分野で働くよりも、長い時間にわたって障害者と友達になって、一緒に旅行もして、一緒に人生を生きていく家族、友人の方がはるかにその分野の専門家といえるだろう。
あるいはそのような特別な機会はもてなくても、街で、駅で、公園で障害者に会って、一度でも助けたり、話したりしたことのある人の考えは、いくつかの学問的な理論よりも重要ではないだろうかとも思う。
こんどは筆者が彼らに質問をした。
障害者と一緒に住んでいる人、あるいは特別な友達になって一緒に仕事をする人、当人が望むかどうかは別にして、障害者と関係を結んで生きる人たちはおおきな負担を抱えて生活を送ることになるのだろうかと聞いてみた。
学生たちはすこし考えて、自分たちはまだ実際に経験がないのでよく分からないが、考えてみれば明らかにそうだろうと思うと言った。予想通り彼らの考えは一般的なものだった。
しかし、筆者自身こう断言するのはちょっとはばかられるところであるが、全くそうではない答えをしてくれた人もいると伝えた。その人は、障害者と一緒に友情と愛を分かち合う人生は、そうでないものよりもはるかに価値があり幸せであることは、すでに証明された事実だと言ってくれたのだ。
いやその人は、もっとつよくこう言ってくれた。筆者と関連を結んで生きる人は、本人が気づいていなくても、筆者の障害のせいで困難な目に遭ったり、腹を立てたり、後悔したりするよりも、価値があり、意味深く、幸せだった瞬間の方が多いはずだ、と。
そんな言葉に触れたことのある筆者は、自分に障害があるから家族や友人に申し訳ないとは思わない、むしろそのような考えを持つことの方が彼らに申し訳ないことだ、と学生に話した。
学生たちは驚きながらも筆者の考え方に深い共感を示してくれた。
続けて筆者は過去の体験を話した(高校時代、大学時代の友人がこの記事を読んでいるなら、たぶんその口元には笑みが浮かんでいるだろう)。
筆者の学生時代、韓国の学校の建物にエレベーターがあるのは、非常にまれであった。5、6階建ての建物でも階段しかなかった時代である。それで私の友人たちは私を運搬する方法を編み出した。二人が肩を組んで筆者の両肩を持ち上げ、階段を駆け上がる「人間エレベーター」である。
それは筆者の一生のうち、高校時代から大学、職場、複数の学会会場へと受け継がれ、どんどん改良されて、いまここ日本でも、筆者が周りにその方法を伝授して助けを受けている。
暑い夏の日、筆者を肩に載せて上の方まで階段を飛び込ん上がった友人たちは、息を切らして全身汗びっしょりだった。筆者としても申し訳ないし、心いっぱい感謝の気持ちがなかったわけではない。
しかし筆者は、時に友人たちにこのように言った。
「君ら、私に感謝しなさい。私を持ち上げて、なにか気持ちの悪いことでもある? 君らは今日はたしかに良いことをひとつした。ちょっとぐらい悪いことをしても、神さまが見てくれてるよ、多分。ありがたいと思いなさい」
筆者の優しい友人たちは答える。
「はい、はい、ええ、本当にありがとう。ジョンミンは優しい人だ…」
後で聞いたら、最初はなんだこいつは、こんな奴がいるのかと思ったというが、そのような筆者のずうずうしさのために、彼らはいつのまにか筆者に障害があることも忘れてしまって、「人間エレベーター」はひとつの日常となり、喜びとなったと言ってくれるのだ。
最近でもたまに高校時代や大学時代の友人に会えば、昔のように筆者の肩を持ち上げて階段をあがろうとしてくれる。そんな時に友人たちは、自分はまだ君を運べるほど足腰が若いんだぞと自慢をする。たしかに彼らはあの頃のような足腰の動きをみせながら、運び終わって筆者に「ありがとう」と言ってくれる。
学生たちは、筆者の経験を聞いていくつかの質問をして、写真を一枚撮って、すこし涙を浮かべながら研究室を去った。学生たちのインタビューのおかげで、筆者はまたあのなつかしい日の友人との温かい記憶にひたることができたのだった。
「人間エレベーター」を最も徹底的に伝承して筆者を助けてくれたのが教え子たちである。歳月を経て、教え子たちが次のような言葉を筆者に贈ってくれた。
「先生、先生の身体が不自由でなかったら、私たちは先生を持ち上げて走って、先生の汗の臭いを嗅ぎながら、今日まで一緒に生きてくることができませんでした。ありがとうございます」
身体障害はやっかいである。しかし、それと共にどのように生きるかによって、また別の幸せも可能である。そう信じて生きている。
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