障害者と一緒に人生を生きるということ
「義務感で障害者と生きるのは理想的社会とは言えない」と問う学生に、私は答えた
徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長
セウォル号事件で忘れられた話
韓国で数年前に起きたあの「セウォル号事件」で、すぐ忘れ去られたニュースがある。
乗客を動けないようにしておいて、自分たちだけが先に緊密に連絡をとりあいながら船を捨てて出ていった乗組員、彼らは遠く離れた仲間とも通信して、自分たちだけの秘密の通路を利用して一糸乱れずに船から逃げた。
ところが、その義理堅く、卓越した逃走劇のなかで、病気の仲間だけは捨てて逃げていったというのである。
一瞬ある想像が頭をかすめた。
障害を抱え生きる筆者がそこに乗っていたら…。
乗客ではなく乗組員だったとして…。
ゾッとする気分だった。
しかし、そのような気分はすぐに葬り去ることができた。その船ではたくさんの明るい高校生たちが不当にも死を余儀なくされたわけだが、(不謹慎かもしれないが)そこでは障害もなにも関係なく、皆が海に、空に一緒に行くことができた、それがせめてもの救いだったように思えた。
国家の品格
国家のレベル、いわば「国格」とは、なにをもって判断することができるのだろうか。
GNPやGDPによってか? G7やOECD加盟国であることか? そもそも先進国という言葉が、経済や貿易の規模で測定できるといえるのだろうか?
もちろん経済的に豊かな国の人権状況が相対的により良いのは事実である。
しかし、真の「国格」は、その社会の中で最も弱い人々、すなわち「マイノリティ」たちがどのような待遇を受け、どのような状況に置かれているのかによって最終的に判断されることが正しいのかもしれない。
民主主義への渇き、人権に重点を置き、生命と自然環境の改善を叫ぶこと、そして平和と反戦、独裁政権に対する抵抗といった正義に向けた行進は、そのすべてが、社会の強い階層、つまり自己の安全と幸福を自ら守り享受することができる人々のためだけのものではない。
それはその社会の最弱者の立場を、人間らしい生き方ができるだけの状況に引き上げるための闘いであってほしい。歴史もまた、そのような基準で記録され、解析されなければならないだろう。
その最弱者の最も具体的な一例が障害者である。

障害者に対する配慮が国家社会の品格基準のバロメーターであると唱える筆者、2012年慶応義塾大学での国際シンポジウムに参加して=筆者提供
一国の「国格」は決して政治家たちの作為的なジェスチャーや偽善めいた言葉、国際的な儀典の格式、勢いのある企業のロゴマークによってあらわされ、評価されるものではない。その国の社会が最も弱い層としての障害者たちへ、どのような配慮をみせるかという基準でみれば正確に測定されるのではないか。
そして、韓国はいまだ残念極まりない状況だというのが現実である。いつかのこと、日本の友人が質問した。
「韓国は経済も急成長して、先進国に加わったし、また特にアジアではキリスト教最強国だから、身体障害者に対する待遇も世界最高レベルなのでしょう?」
そのとき筆者は、決してそうではない、と答えようとして、ついに声が出なかったことをいまも覚えている。