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コーヒーは「日常」の香りだった 内戦続くシリア

安田菜津紀 フォトジャーナリスト

ジュディさんが淹れてくれたコーヒー。シリアから仕入れた器も味わい深い

 埼玉県与野駅、飲食店が立ち並ぶ駅前から線路沿いの道をたどり、静かな住宅街へと向かう。家と家の間に挟まれた細道の奥、隠れ家のような佇まいの一軒家が、「ドバイ・アンティーク&カフェ」だ。小さな扉を開けると、色とりどりの小物や絵画が目に飛び込み、まるで異世界へと迷い込んだかのような心地よささえ覚える。「アハラン ワ サハラン(アラビア語で「ようこそ」)」と出迎えてくれたのが、オーナーでありシリア出身のユセフ・ジュディさん(34)だ。2017年からここに店を構えている。にこやかながら、その顔にはどこか疲れの色が浮かんでいるようにも思えた。

「ドバイ・アンティーク&カフェ」に温かく迎え入れてくれたジュディさん

店内では、シリアのスーク(市場)でよく目にした小物も売られている

カルダモンで香りづけされたシリア産コーヒー

 ジュディさんは早速、シリア産のコーヒーをふるまってくれた。カルダモンで香りづけされているのが特徴で、小さなコーヒー鍋にお湯を沸かし、スプーンで3杯ほどのコーヒー粉を加えていく。熱がしっかり全体にいきわたるよう、こまめに混ぜながら、「あまり煮立ちすぎてしまうと風味が落ちるので」と常に気を配る。シリアにお邪魔する時は何度となく頂いたこのコーヒーが、実はとても繊細な飲み物だったことに今更ながら気づかされた。

香りだけではなく、小さな泡音が小気味良い

 一口目から、コーヒー豆の味わいが濃縮されたその味わいに、カルダモンの微かな香りが優しく共鳴する。「故郷では、朝飲むこともあれば、夜煙草をふかしながら味わったり、とにかくシャイ(紅茶)と並んで日常の一部だったんです」とジュディさん。

隣国でもよく目にした、シリア産のコーヒー

丁寧に火加減を見ながら、香り豊かなコーヒーを仕上げていく
 シリア北東部に位置するハサカ県内の街が、ジュディさんの故郷だ。有力部族の出身で、広大な土地の地主でもあったため、大規模な農園や工場などを有していた。「その農園に出向いて、働く人々との作業を終えた夕方には、彼らや友人たちと共に、焚火を起こすんです。そのゆっくりした火で沸かすコーヒーの味は格別でした」。

瑞々しさに溢れた故郷での日々

 ジュディさんが語った故郷での日々は、瑞々しさに溢れたものだった。父親は自家製のものしか食べない人だったという。家族の食べる分の野菜は自分たちで栽培し、はちみつ、チーズなども全て家でまかなっていた。父の好む食べ物で、ジュディさんたちもまた、育ってきた。「自宅近くに果樹園があったので、そこに朝テーブルを出し、焼き立てのパンを工場から持ってくるんです。菜園でとれたトマトやキュウリを手摘みで一緒に食べていました。摘んだばかりの野菜はやっぱり、鮮度が違うんですよ」。朝食を済ませた後は各工場などを回ったり、それぞれの作業を手伝ったりしながら日々を過ごしていた。

 ジュディさんが暮らしていた街は、私もシリア取材の拠点にしたことがある場所だった。街中にはキリスト教の教会もあり、クルド人、アラブ人だけではなく、アルメニア人や異なるバックグラウンドを持った少数派のコミュニティーも存在する。「誰が何人で、どんな宗教を信じているのか、当時は意識をしないほど隣り合って暮らしていました」。

朝ごはんに立ち寄った、ハサカ県の街中の食堂

 その中でもクルド人は、シリアの人口の10%前後とされ、ハサカ県を含めたシリア北部のトルコ国境地帯を主な居住区としている。ジュディさんも、その一人だ。クルド人はシリアが戦乱の波に飲み込まれていく以前から、差別的な処遇や不利益を被ってきたことが指摘をされている。「政府側から私たちの土地を割譲させようという動きがありました。大事にしないためにも、一部の土地や収穫したものを差し出していました。そうした干渉は、クルド人だからという一面はあったかもしれません」。

シリアにも及んだ“アラブの春”

 政権への権力の集中は、現在のバッシャール・アサド大統領の父の代から何十年にも渡り続いてきたことだった。「私たちは全てのことを自由にしゃべってきたつもりです。ただし、政権に関すること以外は、ですが」。土地の一部などを差し出し、政府側との均衡を保てるよう努めながらも、ジュディさんの部族もただじっと服従していたわけではない。叔父が政権に反するような発言で刑務所に入れられたこともある。「そんな姿を目の当たりにし、なんでも言ってやろう、と思いつつも、怖さがあり口をつぐんでいました」。自身は政権に対し、取り立てて反抗しようとは思ってこなかったという。そんな萎縮する日々が変わったのがあの、“アラブの春”だった。「自分の中でのストッパーがなくなった」と当時の心境を語る。

 チュニジアやエジプト、リビアなどで次々と民衆が現政権へと抗い、路上へと繰り出した“アラブの春”は当初、強力な支配体制にあるシリアには波及しないとみられていた。けれども2011年3月から、シリア国内でも民主化デモの波は全国へと広がり、ジュディさんの暮らす街の周辺にも及んでいった。ある時、ハサカ県内のカミシリで起きた丸腰の民衆のデモに、治安部隊が武力で応じる姿を目の当たりにしてしまった。「銃を乱射する治安部隊に弾圧され、逃げまどう人々の足元で、射殺された父母に泣きすがる幼い子どもの姿がありました。その光景が目に焼き付いて離れなくなったのです。なぜこんな政府に支配されなければならないのかと、憎しみを抑えることができませんでした」。

 反政府デモを、出資もしながら積極的に支えるようになった。ところがデモのほう助をしたとして、指名手配されることになってしまう。妊娠中の妻や娘を置いていくことに後ろ髪をひかれながらも、まずは身の安全のため、着の身着のまま故郷を離れる他なかった。民主化運動が起こった翌年、2012年のことだった。果樹園で家族と朝ごはんを囲んでいた平穏な日々は、崩れ去ってしまったのだった。

戦闘の爪痕が残る、ハサカ県南部の街

日本での困難な生活、家族を呼び寄せることもできず

 当初、弟のいるイギリスを目指したものの、頼ったブローカーに騙され、たどり着いたのは全く馴染みのない日本の成田空港だった。「当時の日本のイメージといえば、質のいい家電や車、最新技術でいい製品を作ることくらいでした。他に記憶に残っているのは2011年の津波のニュースです。けれどもまさかその日本に自分が来るなんて…」。

 その後の生活は、全てが困難に思えた、とジュディさんは振り返る。全く馴染みのない言語、家屋の解体などの不慣れな仕事、その間も常に頭を離れなかったのは家族のことだった。妻と娘、ジュディさんがシリアを離れた後に生まれた息子は隣国イラクの難民キャンプに避難していた。けれどもジュディさんに下された判断は、難民認定ではなく、特定活動という資格での在留許可だった。この滞在資格では原則として、家族を日本に呼び寄せることができない。「日本に招くこともできない、かといってパスポートもない状態では、自分から会いに行くことさえできないんです。そんな離れ離れの時間は、思い返すことさえ難しいほど、苦しみぬいた日々でした」。当時を語るだけで、ジュディさんの顔は苦痛でゆがむ。何度尋ねても、だめだ、不可能だ、一点張りだった中でも、ジュディさんは諦めなかった。

「ドバイ・アンティーク&カフェ」の店内に飾られていた、アラビア書道の言葉

2年半ぶりの家族との再会

 2015年1月、ジュディさんは再び成田空港に降り立った。今度は、自身の家族を迎えに行くために。現在のジュディさんの滞在資格では本来難しい、家族の呼び寄せの許可を特別に得ることができたのだ。2年半ぶりに再会した娘は随分と背が伸び、シリアを離れたときにはまだお腹の中にいた息子とは初めての対面だった。

空港での、家族との再会(難民支援協会提供)

 これまで電話越しにしか話せなかった家族を抱きしめる喜びにふるえたのもつかの間、ふとこうも考えたのだという。「自分とは再会できたものの、他の家族からはさらに遠ざかることでもあるのだ」と。

 「日本にいると毎日毎日が飛んでいくように過ぎていく」と、日本の生活のせわしなさへの戸惑いが続いていることも話してくれた。カフェの経営は軌道には乗っておらず、他の仕事も手がけながら生計を立てている。「朝仕事に出て、夜遅くに帰る。子どもたちとゆっくり話す間もありません。シリアは一日の中で仕事もあれば、友人、家族たちとゆったり話をする時間もあったんです」。仕事をしているだけで一日が過ぎてしまう日々のあり方に、いまだ馴染めずにいるという。近所の人々とも「おはようございます」「こんばんは」と簡単なあいさつをする程度で、話し込んだことはない。

 忙しいジュディさんの留守中に、ご家族に会いに行ったことがある。子どもたちは保育園、小学校では日本の友人たちと過ごし、娘さんと息子さん同士で話す言葉は日本語だった。「子どもたちがシリア人ではなく、日本人になってしまったように感じるときがあります」と少し寂し気に語るジュディさん。

3人の子どもたちと奥さんが、シャイ(紅茶)を飲みながらジュディさんの帰りを待っていた

無国籍状態の末娘

 加えて気がかりなのは、来日してから生まれた末娘だ。シリア大使館に出生を届けるわけにもいかず、日本で生まれたからといって日本国籍が与えられるわけでもない。つまりシリア人でもなく、日本人でもない、無国籍状態なのだ。「それに対する解決方法が、今の自分にはないんです。働いて居住状況をよくして、日本国籍を取得したり、日本人と同じ権利を得るか、けれどもそれはいつになるのか、叶うものなのか…」。先行きの見えないまま、彼女はいまだジュディさんの両親や兄弟たち、親戚たちの顔を一切知らずに育っている。

「客観的な証拠」を要求する判決に疑問

 ジュディさんの兄と弟2人は、イギリスですでに難民認定を受けている。なぜそれが日本では認められないのか、ジュディさんは2015年3月、難民不認定となった処分の取り消しなどを求めて提訴した。けれども昨年3月、東京地裁は訴えを退けた。判決では、ジュディさんが部族長の家系であること、そして反政府デモに参加していたことは認められたものの、逮捕状や判決文など、迫害を受けた「客観的な証拠」がない、などとしている。

 この判決には私自身、疑問を持たずにはいられなかった。望まずして故郷を離れなければならなかった人々が、「客観的な証拠」を集めることができるだろうか。シリアでは戦乱以前から、逮捕状のない不当な拘束などが横行してきた。これまで隣国へと逃れた方々からも、おぞましい拷問などの実態を幾度となく耳にしてきた。こうした闇の中に葬られてしまいがちな迫害、光が当たらない脅威こそ、難民となってしまう人々がくぐり抜けてきたもののはずだ。仮に証拠が集められたとしても、国境を越える際にもしもそれが見つかりでもすれば、彼らの身に何が起こるのかは想像に難くない。だからこそ多くの人々は、その証拠を捨てたり、時には焼き払ったりして逃れざるをえないのだ。

 「判決はとても痛みを伴うものでした。それでも、日本を嫌いになるわけではありません。お世話になっている人たちがたくさんいるんです。結果が出た以上は受け入れるしかありません」。そう語りながらも、肩を落とす。

 判決の結果はシリア国内の新聞でも報道され、その記事で改めて、自分がいまだに逮捕者リストに載っているということを知った。先に帰った友人が、シリア政府の手に引き渡され拘束されてしまったこともある。目に見える戦火が収まったとしても、すぐに人々が安心して帰れる状況にはまだほど遠いのだ。

 私自身もまたハサカ県を訪れたい、という話をすると、ジュディさんの顔が少しだけ明るくなった。「その時はどうか、私の親せきの元に寄って下さい。出来る限りのおもてなしをします。どうか現地で困ったことがあれば、遠慮なく頼って下さい」。シリアの友人たちがいつも迎えてくれる温かさと同じだった。きっとそこで、親せきの方々と一緒に、あの香り豊かなコーヒーを頂けるかもしれない。その輪にジュディさんが戻ってくることができるのは、いつのことになるのだろうか。

ハサカ県北部、トルコとの国境。雄大な自然が広がる、豊かな大地

(この連載は毎月第4土曜日に掲載します)