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3・11、小沢一郎氏との抗争…混乱続いた菅政権

平成政治の興亡 私が見た権力者たち(17)

星浩 政治ジャーナリスト

参院選のマニフェストを発表する菅直人首相=2010年6月17日、東京・六本木参院選のマニフェストを発表する菅直人首相=2010年6月17日、東京・六本木

「反小沢」を打ち出し菅内閣がスタート

 2010(平成12)年6月2日、鳩山由紀夫首相の退陣表明を受けて、民主党は後継の代表選びに入った。まず手を挙げたのは、菅直人・副総理兼財務相だった。

 鳩山氏とともに幹事長を辞任した小沢一郎氏の立候補が封じられるなか、岡田克也・外相、前原誠司・国土交通相、野田佳彦・財務副大臣らが相次いで菅氏支持を表明。優位に立った菅氏は、政治資金問題を抱える小沢氏について「小沢氏は国民の不信を招いた。しばらく静かにしていただいた方が本人、民主党、日本の政治にとっていいのではないか」と発言した。小沢氏を支持するグループは反発し、対抗馬として樽床伸二氏を推した。

 4日に国会議員による投票が行われ、菅氏が291票を獲得、129票の樽床氏に圧勝した。菅氏は直ちに衆院本会議で首相に指名され、8日に菅内閣が発足する。

 菅首相は官房長官に仙谷由人氏、財務相には野田佳彦氏を充てた。また、党の政策調査会を復活させ、玄葉光一郎氏に政調会長と内閣の公務員制度改革担当相を兼務させた。党幹事長には枝野幸男氏が起用された。いずれも「反小沢」を訴えてきた面々だ。菅政権が「反小沢」を明確に打ち出したことで、内閣支持率は上昇。そのまま、夏の参院選(6月24日公示、7月11日投票)を迎えるはずだった。

突然、「消費税率10%」を提起した菅首相

 そこに波乱が起きる。6月17日、民主党の政策発表で菅首相が突然、「消費税率10%」を提起したのだ。

 背景がある。この年の春、菅氏は財務相としてギリシャの経済危機への対応を関係国などと話し合った。財務省の官僚からは「日本も財政赤字を増やし続ければ、財政破綻が避けられない」と言われていた。菅氏は当時、私の取材に「民主党政権が子ども手当などで歳出を拡大するなら、財源を確保するのは当然のことだ」と語っていた。  

 菅首相の唐突な消費税率アップの提起には、自民党による消費税の5%から10%に引き上げ提案に“便乗”しようという計算があった。だが、選挙前の増税提起がどんな反応を呼ぶか、菅氏の見通しの甘さはすぐに露呈する。

 参院選は増税が最大の争点となった。連立与党だった国民新党の亀井静香代表をはじめ、自民党を離れた渡辺喜美氏が率いるみんなの党、共産党などが「増税反対」を唱えた。

参院選の開票状況を見守る民主党の枝野幸男幹事長。民主党は敗北した=2010年7月11日、東京都千代田区
 7月11日の投票日。改選121(選挙区73、比例区48)のうち、自民党が51議席を獲得して改選第一党に。民主党は44議席にとどまり、菅首相が掲げた「改選議席54プラスアルファ」という目標を大きく下回った。その他は、みんなの党が10議席、公明党が9議席、共産党が3議席などだった。

 12日未明の記者会見で「責任ある政権運営を続けていきたい」と続投を宣言した菅首相だったが、自民党の谷垣禎一総裁は「一刻も早く解散し、国民の信を問うべきだ」と気勢をあげた。

菅直人氏と小沢一郎氏の相違点と共通点

 民主党は秋に代表選を控えていた。鳩山由紀夫前代表の任期(2年)が10年9月で切れるためだ。参院選の敗北を受けて、小沢氏が出馬に意欲を見せた。8月19日、長野県軽井沢にある鳩山氏の別荘に小沢、鳩山両氏のグループ約160人が結集。事実上の小沢擁立の「決起集会」となった。その後、鳩山氏が「菅代表・小沢幹事長」で妥協するよう菅、小沢両氏に打診するが、菅氏は拒否。民主党を二分する代表選に突入した。

民主党代表に再選された菅直人首相(左)と握手する小沢一郎前幹事長=2010年9月14日、東京都港区
 国会議員に加え、党員・サポーター、地方議員も参加する代表選は9月1日告示、14日投票で行われた。小沢、鳩山両グループの所属議員は党内の4割近くを占めるため、国会議員票では小沢氏が優勢で、党員票では菅氏が優位と見られていた。結果は、国会議員票で菅氏が206票を獲得、200票の小沢氏を僅差で押さえた。党員・サポーター、地方議員を合わせた全体では、菅氏721ポイント、小沢氏491ポイント。両雄の対決は菅氏の圧勝で終わった。

 市民運動出身で政界の「一匹狼」の菅氏と自民党最大派閥を仕切った小沢氏。二人は対照的な政治家だ。

 なにより自民党との向き合い方に大きな違いがある。菅氏は、官僚や業界との癒着こそ自民党政治の問題点だと指摘し、政治文化の転換を訴えてきた。小沢氏にとって自民党は権力闘争のライバルだ。政権を奪還して官僚や業界とのパイプを自民党から民主党に付け替える戦略を描く。一方、二人には共通点もある。権力欲だ。権力を手にするためには権謀術数もいとわない。二人を軸とした民主党内の抗争は、止まることがなかった。

 代表選で小沢氏を退けた菅首相は、党役員人事と内閣改造に着手。枝野幹事長を幹事長代理に降格して、後任の幹事長に岡田外相を充てた。外相には前原国交相、総務相には民間から片山善博・前鳥取県知事を起用した。9月17日、改造内閣が発足した。

 代表選で破れた小沢氏を、さらなる試練が見舞う。10月4日、小沢氏の政治資金管理団体「陸山会」の収支報告書虚偽記載問題をめぐって、検察審査会が「起訴すべきだ」とする議決を公表。小沢氏は強制起訴されることになった。

「政策職人」与謝野馨氏を経済財政担当相に起用

 年が明けて2011年1月。菅首相は4日の年頭会見で、社会保障と税の一体改革を進める考えを表明。「超党派の議論を開始し、6月ごろをめどに方向性を出したい」と語った。念頭にあったのは、与謝野馨元経産相の入閣だった。

 与謝野氏は自民党が下野した後に離党し、新党「たちあがれ日本」に所属していた。経済・財政政策に精通し、菅首相が狙う税と社会保障の一体改革の司令塔にはうってつけの「政策職人」だった。

海江田万里前経財相(右)から業務引き継ぎを受ける与謝野馨新経財相=2011年1月17日、東京・霞が関
 菅首相は14日、内閣改造を行い、与謝野氏を経済財政担当相に起用する。仙谷由人官房長官は民主党代表代行に転じ、後任の官房長官には枝野幸男氏が就いた。

 24日、通常国会が召集され、菅首相は初めての施政方針演説を行った。税と社会保障の一体改革について「与野党間で議論を始めよう」と呼びかけほか、TPP(環太平洋経済連携協定)を「平成の開国」と位置付けて参加に意欲を見せた。だが、野党の自民党は静観、民主党内でも賛同は広がらなかった。

 1月31日、小沢氏が政治資金規正法違反で在宅起訴された。民主党は2月22日の常任幹事会で、小沢氏に対し、判決が確定するまで「党員資格停止」とすることを決めた。小沢氏は「被告」の身となり、政治的影響力が低下していく。

参院決算委員会を襲った大きな揺れ

 3月4日の参院予算委員会で、自民党の西田昌司氏が前原外相に「外国人から献金を受けている。責任を取るべきだ」と追及。前原氏はあっさりと認めて、外相を辞任した。後任には松本剛明外務副大臣が昇格した。外国人献金問題はさらに広がりを見せた。11日付の朝日新聞は、菅首相に在日韓国人から104万円の違法献金があったことを報じた。

 前原外相辞任の直後でもあり、自民党からは「菅首相も辞任するのでは」といった憶測も流れた。私は、菅首相に確認した。「献金者が日本名だったので外国籍と知らなかった。確認して全額を返金したい。辞任は全く考えていない」との反応だった。この日午後の参院決算委員会。違法献金問題を追及する自民党の攻勢を、菅首相は同様の答弁でしのごうとした。その時、委員会の部屋のシャンデリアが大きく揺れ動いた。

 座っていた閣僚や議員から「地震だ」という声があがる。午後2時46分。マグニチュード9.0の大地震が東日本を襲った。未曾有の混乱が始まった。

福島第一原発事故で原子力緊急事態を宣言

 私は朝日新聞政治部が取材拠点にしている国会記者会館に行き、同僚と情報収集した。テレビでは岩手、宮城、福島の沿岸地域が津波に襲われている光景が映し出されていた。警察情報で「死者200人」と伝えるテレビもあったが、「それでは済まないだろう」と感じた。

 午後4時11分、全閣僚出席の緊急災害対策本部が首相官邸で開かれたが、被害の全容は分かっていない。東京電力福島第一原発では、大津波によって緊急炉心冷却装置を動かす非常電源にトラブルが発生。原子炉が冷却できない状態に陥っていた。夜になって原子力災害特別措置法に基づく原子力緊急事態が宣言され、第一原発から半径3キロ以内の住民を避難させるよう自治体に指示が出された。

 翌12日早朝、菅首相は陸上自衛隊のヘリコプターで首相官邸を飛び立ち、福島県大熊町の第一原発を訪問。吉田昌郎所長ら東電幹部が対応した。首相官邸で指揮をとるべき菅氏が現場に乗り込んで行ったことには政府部内からも批判が出たが、菅氏は「文系の政治家よりは原発のことを理解できる理系の私自身が行ったほうがよいと考えた」と説明していた。

 原発事故はさらに深刻になっていく。12日午後3時36分には第一原発の1号機で水素爆発が起き、原子炉建屋が吹き飛んだ。14日午前11時すぎには3号機も爆発した。

緊急災害対策本部に臨む菅直人首相(左から3人目)=2011年3月16日、首相官邸緊急災害対策本部に臨む菅直人首相(左から3人目)=2011年3月16日、首相官邸

「最大の不幸であり、一番の僥倖であった」

 翌15日早朝、菅首相は官邸から車で5分ほどの距離にある東京電力本社に乗り込んだ。約200人の職員を前にマイクを握った。

 「今、福島第一から撤退すれば、1号機から4号機、5、6号機まで全部爆発する。福島第一原発だけでなく福島第二原発も爆発する」「日本の領土の半分が消えることになる。日本の国が成り立たなくなる。何としても命がけで、この状況を抑え込まないといけない」「東電は逃げても、絶対に逃げ切れない。金がいくらかかっても構わない。日本がつぶれるときに撤退はありえない。撤退したら、東電は100%つぶれる」(注1 船橋 2012上 331-332ページ)

 福島第一原発からの東京電力の撤退は絶対に認めないという、菅首相の意思表示だった。しかし、菅首相の言葉があまりにも激しかったため、「東電側は原発事故に対して菅首相と一緒に立ち向かうというより、恐怖感の方がまさってしまった」と当時の菅首相の側近は話していた。

 東京電力の撤退は見送られ、自衛隊がヘリコプターによる決死の給水作業を断行した。東京消防庁による懸命の給水も実施された。原発の冷却システムも動き始めた。「東日本壊滅」といった最悪の事態は免れたが、東日本大震災は岩手、宮城、福島の3県を中心に、死者・行方不明は2万2千人を超え、避難した人はピーク時で47万人に達した。日本の歴史上、極めてまれな大災害となった。

 菅政権の対応はあまりにも未熟で、後手に回ったのは事実だ。しかし、福島第一原発を運営していた東京電力に対し、菅首相は利害関係がほとんどなかったこともあって、「撤退は許さない」姿勢を貫くことができたことも確かである。

 原発事故をつぶさに検証した船橋洋一氏は、菅首相について、こう記した。

 「菅直人という危機時のリーダーシップは「最大の不幸であり、一番の僥倖であった」とでも表現するほかないのかもしれない」(注2 船橋2012下 442ページ)

(注1) 船橋洋一『カウントダウン メルトダウン 上』文芸春秋)
(注2) 船橋洋一『カウントダウン メルトダウン 下』文芸春秋)

他人事ではなかった福島の苦悩

 大震災の発生を受けて、取材のため各地を歩いた。福島出身の私にとって、故郷の苦悩は他人事ではなかった。

 南相馬市には子どもの頃に海水浴に訪れた。県立福島高校時代には、飯館村から通学していた友人がいた。飯館村は、福島第一原発から約50キロも離れ、原発で働く人もほとんどいない。だが、風の影響で放射線量が上がり、全村が避難の対象になった。高校の先輩に当たる菅野典雄村長は「放射能は色もない、匂いもないのに、長い間住んできた村を出ろと言われ、飼ってきた牛を処分しろと言われる。これ以上ない理不尽を体験した」と語っていた。

 原発周辺の浪江町、双葉町や川内村なども取材に歩いた。仮設住宅でたくさんの人たちに話を聞いた。励ますつもりが、「あんたも、新聞記者としてがんばって」と言われることが多かった。福島県人の「人情」を感じた。

求心力を回復できずに退陣

 大震災と原発事故に翻弄された菅政権は、求心力を失った。菅首相は自民党との大連立を模索したが、谷垣禎一総裁に拒否されて失敗。それでも、5月には静岡県の浜岡原発の運転停止を中部電力に要請して実現するなど「脱原発」を進めようとした。

民主党の両院議員総会で、辞任表明後、壇上から自席に戻る菅直人首相=2011年8月26日、国会内
 6月には、与謝野経済財政担当相が「税と社会保障の一体改革案」をまとめた。消費税率について「2010年代半ばまでに段階的に10%まで引き上げ、当面の社会保障改革の安定財源を確保する」と明示した。しかし、政権の求心力を回復することはできなかった。

 自民、公明両党は、内閣不信任案提出する構えを見せ、民主党内でも小沢グループを中心に同調の動きが出るなか、菅首相は退陣を決意。8月26日の両院議員総会で退陣を正式に表明した。「楽観的性格のなせる業かもしれないが、与えられた条件の中でやるべきことはやった。一定の達成感を感じている」と語った。

 菅氏と親しい笹森清・元連合会長からこのころ、こんな話を聞いた。「七転び八起きと言う言葉があるが、菅さんはまだ、三転び四起きぐらいだと思っているのではないか。根っからの楽観主義者だから」

 菅氏は首相退陣後も、衆院議員として「脱原発」の運動を続けている。

内憂外患のなか、野田佳彦内閣が発足

首相に指名された民主党の野田佳彦代表=2011年8月30日、東京・永田町
 菅首相の後継を決める民主党代表は8月27日告示、29日投票という慌ただしい日程で進められた。立候補したのは前原誠司、海江田万里、野田佳彦、鹿野道彦、馬淵澄夫の5氏。小沢、鳩山グループの支援を受けた海江田氏が優勢と見られたが、前原、野田両氏は「決選投票になったら互いに全面協力する」ことを確認し、海江田氏に対抗した。

 投票は国会議員だけで行われ、1回目の投票結果は海江田氏143票▽野田氏102票▽前原氏74票▽鹿野氏52票▽馬淵氏24票。過半数を獲得した候補者はおらず、決選投票にもつれこんだ。その結果、野田氏が215票を獲得、177票の海江田氏を大きく引き離して圧勝した。野田、前原両氏の狙い通りだった。

 野田氏は翌30日の衆院本会議で首相に指名された。野田氏は1957年生まれ、千葉県議を経て、93年総選挙で日本新党から初当選。民主党国会対策委員長、財務副大臣などを経験。酒豪で豪放な性格で知られる。

 9月2日には野田内閣が発足した。民主党幹事長には参院議員会長だった輿石東氏が就任。官房長官には野田氏の側近の藤村修氏が起用された。外相には玄葉光一郎氏、財務相には安住淳氏が抜擢(ばってき)された。

 党内に小沢氏らの反乱の動きを抱え、党外では自民党の攻勢が待ち構える。まさに内憂外患の船出であった。

次回は、野田政権の行き詰まりから解散・総選挙、安倍自民党政権の復活を描きます。6月8日公開予定。