(12)「自分を選んでくれる人たちの気持ちをわからずどうやって政治をするんだ」
2019年06月03日
「ドブ板選挙」という言葉がある。側溝が周りにある小さい民家をくまなくたくさん回って、候補者の名前を有権者に刷り込むくらい地域の選挙活動を一生懸命にやるという意味である。この選挙運動には「古くさい」というイメージがつきまとい、マイナスの評価を受けがちだ。
私はまったくそうは思わない。新聞記者の仕事も政治家のそれに似たところがあって、若いころに地方に配属されると大体は「ドブ板取材」に近いことをしながら日々を過ごす。このころに記者クラブのソファに寝転んで「天下国家」の夢を見ながらうたた寝をしている記者は大した記事を書くことができない。
政治家の場合も、「ドブ板選挙」をやることによって住民の声をたくさん聞き、国民生活にとって何が問題か、国政にとってどういうことが重要なことなのか、身に染みてわかってくるのだと私は考える。
事前に想像していた通り、この連載の主人公、小沢一郎も同じ考えを持っていた。そして、その考えは多分に政治上の師、田中角栄から引き継いだものだった。
1968年5月8日に衆院議員だった父親の小沢佐重喜が急死、弁護士を目指していた長男の小沢一郎は司法試験の択一(短答式)には受かったが、急遽次の総選挙に立候補することになり、自民党内で頭角を現わしていた田中角栄の門を叩いた。
――お父さんは藤山愛一郎の派閥でしたが、当時自民党内では幹事長に就いていた田中角栄が頭角を現わしてきて勢いもありました。また、お父さんも小沢さん自身も官僚的なことは好まないということで田中さんの門を叩いたということですね。紹介者はいたのでしょうか。
小沢 ええ、田中先生の秘書の榎本敏夫さんです。ロッキード事件で有名になってしまったけれども、いろいろお世話になった人の知人だったのですね。その紹介で会うことができました。
ロッキード社から全日本空輸(全日空)に対する旅客機売り込みに際して当時の首相、田中角栄に謝礼5億円が支払われたという「ロッキード事件」は、一審の東京地裁で田中有罪。田中は控訴したが二審の東京高裁でも控訴棄却。最高裁で審理中の1993年12月16日に田中が死去して公訴棄却となった。一審での田中弁護方針は5億円受け取りの完全否定だったが、榎本敏夫秘書はメディアに受け取りを認めた。しかし、榎本は首相就任の「お祝い」としての受け取りと証言しており、ロッキード事件は、同時期に日本導入話が進んでいた対潜哨戒機P3Cの件と併せ、その真相は闇の中となっている。
――最初に田中さんを訪ねたのは、砂防会館ですか。
小沢 違います。目白の自宅です。
――初めて会った田中さんの印象はどういうものでしたか。
小沢 それはもうすごいです。田中先生には、その当時、渡辺美智雄、田中六助、宮沢喜一は誰も会えないんだから。まともに会って喋れない。そのくらい上だったから。我々なんか事務所に行って声をかけるなんていうことはありえない。ただ顔を見に行って、親父が「おう」とひとこと言って、「頑張っているか」「はい」と、それだけだよ。もう怖かったな。ぼくが怖いなんて言われるけれども、こんなものじゃない。
――抽象的な言い方ですが、カリスマ性のようなものを感じるんですか。
小沢 昔の人はそうだけど、そういう権威とかを重んずる気持ちが強かったし、リーダーとしてそれだけのものを持っていたのかもしれません。今はそういう意味のリーダーはいないね。
また、田中先生はきつかったよ。政治家をしっかりやりたいんだったら、毎日辻立ち、毎日戸別訪問何万人と言われて、選挙に対してはものすごく厳しかったね。
――初対面の時から厳しかったのですか。
小沢 もちろん。今時の政治家のように若い者にゴマなんかすってないよ。ビシビシやられたね。
――当時、小沢さんが26歳ですから、田中さんから見れば当然まだ青年でしたね。
小沢 ぼくと田中の親父の長男とは同い年だったから。
田中角栄と正妻の間には2人子どもがあり、田中真紀子の上に長男の正法がいた。小沢と同じ1942年に誕生したが、4歳の時に夭折した。
――そうですよね。その点で余計可愛がられたという感じはありましたか。
小沢 たぶん、親父の心理としては、それはあったんだろうね。
小沢 そんなことは絶対に言わない。
――言わなかったですか。
小沢 まず言っていない。なかなか了解しなかったよ。普通、親の後を継ぐんだから当選の確率は高いでしょう。それでも、なかなか了解しなかった。ちゃんと自分でやっていく能力がなければだめだと。
――すると、お父さんの死去が1968年5月ですから、こっちへ来てもいいよとなったのが、例えば翌年の1月とか2月とかですか。
小沢 もっと後だったね。ぼくが選挙運動を始めて、いろいろやったその挙げ句だったね。そして、東京でぼくのマイナスの情報を入れる人もいたんだね。あいつは人前で話ができないとか、あんなのはダメだという類の話を入れる人がいたから余計厳しかった。事実、ぼくは人前で喋ったことがなかったから。それで初めて人前で喋ったのは、4、5千人集まった演説会だったかな。コップで冷や酒2杯飲んで会場に行った。だから、何を言ったのか覚えてないくらいだったね。
――小沢さんは、酒は顔に出ないんですか。
小沢 出ない、出ない。
――じゃあ大丈夫ですね。
小沢 ぼくが(1968年の)12月に選挙に出る決断をして、その翌年の春ごろかな、ぐるぐる回り出して大きな会合をやって、それでようやく、まあまあいいかという感じになりました。その意味で、厳しかったから自民党は強い面があった。日常活動を徹底してやれということは先輩がみんなに言っていたからね。
――ぐるぐる回るというのは、生活時間もかなり削られるわけでしょう。
小沢 毎日毎日、朝から晩までね。親の残したものはあったから、回る対象はあったわけで、その意味では楽だったけど、運動量としては他の人と同じかそれ以上にやったね。
――朝は何時頃から回るんですか。
小沢 何時だろう。その時によるけれども、相当早くから回ったね。7時か8時かな。みんな早く起きているから。夜はそうそう遅くまでは回れないから。町場だと多少遅くてもいいけれども、田舎はそこまでは回れないからね。
――車で回るんですか。
小沢 田舎は車でなきゃとても回れない。町場は歩いて行ったよ。
――小沢さんは、選挙の時はまず郡部の方から先に回って、それから都市部の方へ攻めてくるという戦略を持っているのですよね。
小沢 そう、川上からね。
――そうすると、選挙の時には周りの郡部の方から攻めるわけですか。
小沢 選挙というか、日常活動ですね。選挙の期間なんて大したことないでしょう。日常ですよ。
――郡部から回れというのは、主に田中さんから教わったのですか。
小沢 郡部から回れというのはそうかもしれないな。けれども、自分自身としても考えてそういうふうにするようになりましたね。郡部はあまり人が行かない。それに今になるとますます過疎化して限界集落なんて言うでしょう。ところが、政治家というのはみんな、人の多いところへ行きたがるんですよ。だけど、大勢いたからって、その候補者に入れる人なんかいませんよ。それはまったくの素人のやり方なんだ。人の少ない郡部ほど政治の力を必要としているし、みんな寂しがってるんです。だから、本当に政治の力を欲しているところから回る。
それからもうひとつは、町と言っても田舎の町の人は周辺の郡部から出てきているわけだから、そういう郡部に住んでいる人たちの息子や娘たちへの宣伝効果もあるんです。町に住んでいる人でも、ああわざわざ自分の実家の方まで行ってくれたんだということになる。いろいろな意味で、政治的にも人間関係的にも川上からなんですよ。
実は、都会でも川上からなんです。都会でも川上と川下はあるんだ。みんなこれがわかっていない。だから選挙がダメなんだ。都会で言えば、大企業とか大労働組合とか、そんなのは票にならないんです。
――小沢さんは若手の議員に対して、とにかく自分の足で選挙区を回れとよく言っています。選挙区をこまめに回ることによって政治の課題が見えてくるんだと言っています。私は、政治家が現実の政治問題を把握する時に非常に正しい方法だと考えるんですね。
小沢 それが民主主義の基本ですね。自分を選んでくれる人たちの考えや気持ちをわからないで、どうやって政治をするんだということです。政治のイロハだと思います。
小沢 それは走馬燈のごとくいろいろとありますが、かつての自民党を思い出せば、今の自民党はまったく変質してしまった。自民党とか、日本の政治経済を動かしているトップの人たちは大体田舎から出てきている人たちなのに、自ら田舎を忘れてしまっている。
日本は、東京への集中のメリットによって経済が大きくなってきた反面、その状態のままでは地方が寂れていってしまう。これでは最終的に日本はだめになってしまうという思いの中で、例えば田中角栄の日本列島改造論というようなものが出てきた。都会だけじゃなくて日本全国に経済発展の恩恵を及ぼすことが重要だということですね。
ところが、今の自民党はそれがまったくなくなっちゃったな。安倍晋三さんにはまったくないね。もっとも晋三さんは
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