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小沢一郎26歳、田中角栄と出会う

(12)「自分を選んでくれる人たちの気持ちをわからずどうやって政治をするんだ」

佐藤章 ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

拡大田中角栄像の前で演説する小沢一郎氏=2016年7月3日、新潟県南魚沼市浦佐

政治上の師・田中角栄

 「ドブ板選挙」という言葉がある。側溝が周りにある小さい民家をくまなくたくさん回って、候補者の名前を有権者に刷り込むくらい地域の選挙活動を一生懸命にやるという意味である。この選挙運動には「古くさい」というイメージがつきまとい、マイナスの評価を受けがちだ。

 私はまったくそうは思わない。新聞記者の仕事も政治家のそれに似たところがあって、若いころに地方に配属されると大体は「ドブ板取材」に近いことをしながら日々を過ごす。このころに記者クラブのソファに寝転んで「天下国家」の夢を見ながらうたた寝をしている記者は大した記事を書くことができない。

 政治家の場合も、「ドブ板選挙」をやることによって住民の声をたくさん聞き、国民生活にとって何が問題か、国政にとってどういうことが重要なことなのか、身に染みてわかってくるのだと私は考える。

 事前に想像していた通り、この連載の主人公、小沢一郎も同じ考えを持っていた。そして、その考えは多分に政治上の師、田中角栄から引き継いだものだった。

 1968年5月8日に衆院議員だった父親の小沢佐重喜が急死、弁護士を目指していた長男の小沢一郎は司法試験の択一(短答式)には受かったが、急遽次の総選挙に立候補することになり、自民党内で頭角を現わしていた田中角栄の門を叩いた。

――お父さんは藤山愛一郎の派閥でしたが、当時自民党内では幹事長に就いていた田中角栄が頭角を現わしてきて勢いもありました。また、お父さんも小沢さん自身も官僚的なことは好まないということで田中さんの門を叩いたということですね。紹介者はいたのでしょうか。

小沢 ええ、田中先生の秘書の榎本敏夫さんです。ロッキード事件で有名になってしまったけれども、いろいろお世話になった人の知人だったのですね。その紹介で会うことができました。

ロッキード社から全日本空輸(全日空)に対する旅客機売り込みに際して当時の首相、田中角栄に謝礼5億円が支払われたという「ロッキード事件」は、一審の東京地裁で田中有罪。田中は控訴したが二審の東京高裁でも控訴棄却。最高裁で審理中の1993年12月16日に田中が死去して公訴棄却となった。一審での田中弁護方針は5億円受け取りの完全否定だったが、榎本敏夫秘書はメディアに受け取りを認めた。しかし、榎本は首相就任の「お祝い」としての受け取りと証言しており、ロッキード事件は、同時期に日本導入話が進んでいた対潜哨戒機P3Cの件と併せ、その真相は闇の中となっている。

――最初に田中さんを訪ねたのは、砂防会館ですか。

小沢 違います。目白の自宅です。

――初めて会った田中さんの印象はどういうものでしたか。

小沢 それはもうすごいです。田中先生には、その当時、渡辺美智雄、田中六助、宮沢喜一は誰も会えないんだから。まともに会って喋れない。そのくらい上だったから。我々なんか事務所に行って声をかけるなんていうことはありえない。ただ顔を見に行って、親父が「おう」とひとこと言って、「頑張っているか」「はい」と、それだけだよ。もう怖かったな。ぼくが怖いなんて言われるけれども、こんなものじゃない。

――抽象的な言い方ですが、カリスマ性のようなものを感じるんですか。

小沢 昔の人はそうだけど、そういう権威とかを重んずる気持ちが強かったし、リーダーとしてそれだけのものを持っていたのかもしれません。今はそういう意味のリーダーはいないね。

 また、田中先生はきつかったよ。政治家をしっかりやりたいんだったら、毎日辻立ち、毎日戸別訪問何万人と言われて、選挙に対してはものすごく厳しかったね。

――初対面の時から厳しかったのですか。

小沢 もちろん。今時の政治家のように若い者にゴマなんかすってないよ。ビシビシやられたね。

――当時、小沢さんが26歳ですから、田中さんから見れば当然まだ青年でしたね。

小沢 ぼくと田中の親父の長男とは同い年だったから。

田中角栄と正妻の間には2人子どもがあり、田中真紀子の上に長男の正法がいた。小沢と同じ1942年に誕生したが、4歳の時に夭折した。

――そうですよね。その点で余計可愛がられたという感じはありましたか。

小沢 たぶん、親父の心理としては、それはあったんだろうね。

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筆者

佐藤章

佐藤章(さとう・あきら) ジャーナリスト、慶應義塾大学非常勤講師、五月書房新社編集委員会委員長

ジャーナリスト学校主任研究員を最後に朝日新聞社を退職。朝日新聞社では、東京・大阪経済部、AERA編集部、週刊朝日編集部など。退職後、慶應義塾大学非常勤講師(ジャーナリズム専攻)、五月書房新社取締役・編集委員会委員長。著書に『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)、『関西国際空港』(中公新書)、『ドストエフスキーの黙示録』(朝日新聞社)など多数。共著に『新聞と戦争』(朝日新聞社)、『圧倒的! リベラリズム宣言』(五月書房新社)など。

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