天安門事件が変えた現代史30年
2019年06月02日
香港が英国から中国に返還され、中国の特別行政区になってから22年が経つ。
最近、香港から伝わるニュースといえば香港政府が制定を急ぐ中国への「逃亡犯引き渡し条例」改悪であり、時間を遡れば、香港の書店関係者が反中国政府の出版販売の廉で行方不明になり広東省で公安の調査受けた銅鑼湾(コーズウェイベイ)書店事件であり、四年前には滞る普選実施に反発した学生・市民が香港の心臓部を道路占拠する〈雨傘運動〉であり、年中恒例行事のような数万人規模の反政府市民デモ……と、香港を巡るニュースは「このままで香港は大丈夫なのか」ばかり。
本当は「こんなはずじゃなかった」。
1984年に中英合意で香港が1997年に英国から中国に返還され、これを危惧する移民ブームこそあったが、〈一国二制度〉と〈五十年不変〉という「鄧小平の約束」を多くの人々は前向きに受け取った。それが、その壮大な計画が狂った。さまざまな要因はあるが一つ、その原因を選ぶとしたら「天安門事件」である。
1989年、中国では鄧小平による改革開放に勢いがつき、自由や民主化を求める言論が声高に叫ばれ、北京の天安門広場を若者たちが占拠した。共産党政府は、この天安門広場をその「混乱のままにしておいては国家的危機」と鎮圧し、6月4日の未明、多くの若者が武力で命を落とした。「共産党政権はやはり怖いもの」という意識が香港市民の間に広まり、百万人規模の抗議集会が開かれ、香港は北京の学生運動指導者らの亡命を援助した。この天安門事件の時に香港で抗議活動を主導したリーダーたちが、その後、香港政治の〈民主派〉に転じるのだが、それはまだ後の話。
この共産党政府への不信感だけであれば、中国政府はこれを払拭することはまだしも容易だっただろう。天安門事件で海外からは中国の人権弾圧と国家による市民虐殺に対する抗議や経済制裁もあったが、13億人の中国市場と「世界の工場」という経済的威力によって、中国政府は実際、数年のうちにこれを克服している。中国政府にとって香港返還をややこしくさせたのは、天安門事件という自責点に加え、そこに英国植民地香港にとっての「最後の総督」クリス・パッテンの施した香港の政治改革だった。
香港返還は中英合意と、その後の香港基本法の制定で、英国は現状を維持し、それを中国が引き継ぐことでフェードアウト&フェードインでスムーズに運ばれるはずだった。香港財閥企業の豊かな財力とビジネスのノウハウ、完備した法律と効率性の良い行政府、それが上手く機能していれば良い……それだけだった。そこにパッテン総督が「乱入」する。それまで歴代の総督は外交官上がりだったがパッテンは政治家。保守党で大臣を歴任し、党幹事長だった1992年の総選挙で保守党は勝利したもののパッテン自身は落選し、ときのメージャー首相が最後の香港総督という職を与えた。
英国は中英合意で香港返還が決まってからも、香港市民に平等に英国永住権を与えず、天安門事件後の社会不安にも空港や大規模公共施設のインフラ整備といったハード面でしか対応できなかった。中国リードで英国は弱腰と思われるなか、政治家のパッテンは中国の国内での圧政に抗議するかのように、民主化された香港を市民に提供し、それが〈五十年不変〉で存続することを企図したのだ。
パッテンは総督就任の翌年、1992年に施政方針演説で立法局(議会、返還後は立法会)改革を打ち出す。それまでは実質的には総督の輔弼機関で親政府・保守派の議員ばかりだった立法局を、有権者の直接選挙による(西側では当たり前のことだが)民意の反映されるものとして民主主義の定着を図ったのだ。このような早急な改革、それもそれまで英国が等閑にしてきたものを、返還まであと何年とカウントダウンが始まった時になぜ始めるのか。この改革を中国は中英合意違反だと強く抗議し、パッテン総督を当時の中国側香港問題担当の魯平・香港マカオ弁公室主任は「未来永劫の罪人」とまで罵った。
1995年に行われた立法局選挙は任期は4年で、返還をまたぐ。天安門事件の後、中国民主化を求め、中国の民主化を支援する団体や中道左派の民生組織の運動家らが中心となって組織した民主党など〈泛民主派〉が早々と政治参加に動き出し、中国政府の肝いりで親中派も急ぎ結集され、これに挑んだ。結果、香港返還への不安、中国政府への懐疑心という市民の心理は民主派を支援し、立法局は民主派が過半数を占めた。
中国はこの選挙で成立した立法局を認めず、返還でこの議会の解散を通告、代わりに返還後の1998年に予定されている最初の立法会選挙まで立法を司る臨時立法会を返還前に設けるという対抗措置をとった。臨時立法会は実質的に中国が親中派の投票人を決定した上での間接選挙で、当然、反政府の民主派は除外された。この臨時議会は英国統治下の香港では活動できないため、臨時立法会は1997年1月に広東省・深圳で成立、それが返還に合わせ香港に移行するとされた。この時点で〈一国二制度〉の原則は崩れていた。
期待と不安の交錯するなか、1997年7月1日、ともあれ香港特別行政区が誕生した。香港の初代行政長官に選ばれた董建華は財界人で、返還前には香港政庁の行政局議員も務め、温和な人柄で、政治家でも公務員でもなく実業界からの行政長官選出に期待がもたれた。だが、
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