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「日韓の亀裂の源流」を和田春樹さんと考える

戦後アジアの前史、そして70年代

市川速水 朝日新聞編集委員

市民運動のはじまり「ベ平連」

拡大ベ平連の呼びかけで新宿駅西口地下広場を埋め尽くしたフォークソング集会の群衆=1969年5月

和田「日本の市民運動が目覚めたといえるのは、米軍が65年2月に北ベトナム爆撃を始めた、いわゆる『北爆』がきっかけでした。60年安保で『声なき声』の市民たちと行動をともにした鶴見俊輔さん(哲学者)、高畠通敏さん(政治学者)らが小田実さん(作家)を代表とし、『ベトナムに平和を!市民文化団体連合』を発足させたわけです。翌年にはこれが『ベトナムに平和を!市民連合』(ベ平連)となります。無党派を掲げて既成政党と一線を画したことで、大学教員や学生、主婦、文化人ら多様な人たちが結集し、ベトナム戦争終結へ毎月定例デモをしたり、アメリカの新聞に意見広告を出す募金活動をしたりしました。まったく新しい形の運動といえたでしょう」

 ジョンソン米大統領があくまでも戦争を続けると、米国内での反戦運動は画期的な盛り上がりをみせた。欧州、カナダやアジア各地でも抗議行動が始まった。日本の市民が新たな運動体を組織して続く形になった。

 ベ平連の性格について補足すれば、朝日新聞の記事によると、小田実氏は1970年2月、記者が「明治以来、変革の運動が実ったことがいっぺんもありませんが」と問われ、「自己主張の絶対化が多すぎ、分裂と挫折の繰り返しや。中央の機関で決めて地方へおろすさかい、死んでまう」と関西弁で答えている。政党など既成革新勢力の運動論を批判する、当時としては思い切った考えだったといえる。

 一方、1938年生まれの和田さんは、第2次世界大戦中に静岡県清水で空襲を受けた記憶もある。日本降伏を告げる玉音放送も聴いた。東京大学でロシア史を専攻し、同大社会科学研究所の助手に採用される。特別に日本外交や米国支配や米軍の動きに強い関心を持っていたわけではないが、結婚後、東京都練馬区に転居したことが契機となった。

和田「近くの朝霞基地に米軍の野戦病院ができ、ベトナム戦争で負傷した米兵を運ぶヘリコプターが横田基地から飛んで来て、毎日のように私の頭の上を行き交う。その音を聞きながら、1967年1年間は『ロシア二月革命』の論文を書いていました。50年前のロシアの兵士の抵抗を書くのもいいが、目の前の米兵のことを何とかしなくてはいけないと悩みました。1968年、米国でキング牧師が暗殺されたニュースを聞き、私は大泉学園の駅前でビラをまくようになりました。訴えたのは、反戦と朝霞野戦病院の撤去でした」

 和田さんは大泉地区の市民に呼びかけ、反戦市民団体「大泉市民の集い」を組織した。おくれてきた「ベ平連」系市民団体であった。

和田「今から思えば、ベ平連は、市民が自由意志で参加する緩やかな無党派の活動として戦後市民運動の画期的なスタートでした。日本のリベラルの限界をやぶり、市民運動の可能性をさぐる始まりだったのではないでしょうか…」

 「ベトナムに平和を!」を唯一のスローガンとして出発したベ平連だったが、1967年に米空母イントレピッドからの脱走兵4人の国外脱出を助けたことから、市民運動の体質変化を起こし始めた。全国に活動が広がる一方で、新左翼党派の運動をこえる迫力、実効性を帯びてきた。さらに小田氏の提起から加害者責任を自覚し、日本のあり方を批判する運動に変わっていったのである。73年、ベトナム戦争終結を決めたパリ和平協定が結ばれると、ベ平連は解散した。

 しかしベ平連の人々は活動を続けた。鶴見俊輔氏も小田実氏も朝鮮問題に目を向けるようになった。

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筆者

市川速水

市川速水(いちかわ・はやみ) 朝日新聞編集委員

1960年生まれ。一橋大学法学部卒。東京社会部、香港返還(1997年)時の香港特派員。ソウル支局長時代は北朝鮮の核疑惑をめぐる6者協議を取材。中国総局長(北京)時代には習近平国家主席(当時副主席)と会見。2016年9月から現職。著書に「皇室報道」、対談集「朝日vs.産経 ソウル発」(いずれも朝日新聞社)など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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