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「日韓の亀裂の源流」を和田春樹さんと考える

戦後アジアの前史、そして70年代

市川速水 朝日新聞編集委員

和田春樹さん

日韓の溝ははぜこんなに深いのか

 いまの日韓関係について「良い」という人はいないだろう。

 慰安婦問題、徴用工に対する賠償問題はいつまでも解決しない。韓国内でずっとうらまれ続ける「親日」というレッテル貼り。竹島に韓国の国会議員が大挙して上陸。レーダー照射ではうやむやのまま。両国の政治家が軽率なコメントをぶつけ合い、韓国から見れば日本は謝罪も補償もしない無責任国家。日本から韓国を見れば「ゴールポストを勝手に遠ざける理解できない国」。街中では、ヘイトスピーチと「嫌韓本」の山――。

 なぜこんなに溝が深いのか。源流をたどると何が見えてくるのか。どこでどうボタンを掛け違えたのか?

 「戦後75年」という長いスパンで解きほぐすために、和田春樹・東京大名誉教授のインタビューを織り交ぜながら考えてみた。

 和田さんは、ロシア史研究から始め北朝鮮、韓国と近隣諸国の近現代史に詳しいことはもとより、市民運動家として実践を半世紀、重ねてきた。慰安婦をめぐる解決策の一つとされた「アジア女性基金」の呼びかけ人、専務理事として左右双方から批判を受け、リベラル派内部からも敵視されたことがある。

 ただ、日韓問題で、すべての人たちの声を代表し、納得させられるだけの学者や運動家は一人もいない。発言すること自体、見方を紹介すること自体が、何らかの政治的色彩を帯びる、と受け取られる昨今だ。その中で和田さんは、知識人、リベラルを自認しながらも、多彩な運動経験を持ち、言いっ放し、やりっ放しではない。

ここは、歴史的事実をなるべく丁寧に、客観的にひもときつつ、和田さんの時々の動きと思いを挟みながら、過去と未来を考えてみたい。

5年刻みの激動

 保守対革新、アジア外交、そして日本の市民運動の歩みを基準に考えた時、日本の「戦後」は荒廃から復興、高度成長期に、5年刻みで激動してきた。

1945年=第2次世界大戦敗戦、ポツダム宣言受諾
1950年=朝鮮戦争勃発、旧ソ連、中国、米国が介入、朝鮮半島が完全に分断
1955年=日本政界が保守・革新で安定的に対立する「55年体制」に
1960年=日米安保条約の調印めぐり激しいデモ続発
1965年=日韓基本条約で日韓国交正常化、ベトナム戦争が泥沼化
1970年=日米安保条約延長をめぐり激しい学生運動

 かつて敵国だったアメリカが日本を占領し、旧ソ連との冷戦が始まった。朝鮮戦争やベトナム戦争へアメリカが介入したのも、背後にソ連や中国がいたから。そのアメリカを後方支援したのが日本だった。戦前と違い、言論の自由を与えられた日本だが、アメリカの庇護をどう見るか、西側の一角に据えられた日本の立場をどう見るか、日本のリベラル内での意見は、元々対立の芽をはらんでいた。

 まず、日本国憲法が掲げる「平和主義」が保革を問わず、戦前の否定であり戦後の姿勢を表す標語になった。一方でアメリカによる占領が解かれ、その後も冷戦下で好戦的なアメリカの姿を見て、一部に「反米」意識が生まれた。左翼政党・団体や労働組合、学生団体の発言力が大きくなった。

 その「平和主義」「反米」「アメリカ離れ」「アメリカ頼り」がいくつかの源流を形作った。別な流れの源は、日本が独立する前にすでに冷戦に組み込まれ、すぐに朝鮮戦争や中台緊張の時代に突入したため、アジア、特に朝鮮半島や中国・台湾に対して、戦争犯罪や植民地支配などに関して日本が主体的に裁きや清算、謝罪、補償をしてこなかったことだ。

 ここを原点として、日本の「リベラル勢力」は紆余曲折の昭和・平成をたどることになる。

市民運動のはじまり「ベ平連」

ベ平連の呼びかけで新宿駅西口地下広場を埋め尽くしたフォークソング集会の群衆=1969年5月

和田「日本の市民運動が目覚めたといえるのは、米軍が65年2月に北ベトナム爆撃を始めた、いわゆる『北爆』がきっかけでした。60年安保で『声なき声』の市民たちと行動をともにした鶴見俊輔さん(哲学者)、高畠通敏さん(政治学者)らが小田実さん(作家)を代表とし、『ベトナムに平和を!市民文化団体連合』を発足させたわけです。翌年にはこれが『ベトナムに平和を!市民連合』(ベ平連)となります。無党派を掲げて既成政党と一線を画したことで、大学教員や学生、主婦、文化人ら多様な人たちが結集し、ベトナム戦争終結へ毎月定例デモをしたり、アメリカの新聞に意見広告を出す募金活動をしたりしました。まったく新しい形の運動といえたでしょう」

 ジョンソン米大統領があくまでも戦争を続けると、米国内での反戦運動は画期的な盛り上がりをみせた。欧州、カナダやアジア各地でも抗議行動が始まった。日本の市民が新たな運動体を組織して続く形になった。

 ベ平連の性格について補足すれば、朝日新聞の記事によると、小田実氏は1970年2月、記者が「明治以来、変革の運動が実ったことがいっぺんもありませんが」と問われ、「自己主張の絶対化が多すぎ、分裂と挫折の繰り返しや。中央の機関で決めて地方へおろすさかい、死んでまう」と関西弁で答えている。政党など既成革新勢力の運動論を批判する、当時としては思い切った考えだったといえる。

 一方、1938年生まれの和田さんは、第2次世界大戦中に静岡県清水で空襲を受けた記憶もある。日本降伏を告げる玉音放送も聴いた。東京大学でロシア史を専攻し、同大社会科学研究所の助手に採用される。特別に日本外交や米国支配や米軍の動きに強い関心を持っていたわけではないが、結婚後、東京都練馬区に転居したことが契機となった。

和田「近くの朝霞基地に米軍の野戦病院ができ、ベトナム戦争で負傷した米兵を運ぶヘリコプターが横田基地から飛んで来て、毎日のように私の頭の上を行き交う。その音を聞きながら、1967年1年間は『ロシア二月革命』の論文を書いていました。50年前のロシアの兵士の抵抗を書くのもいいが、目の前の米兵のことを何とかしなくてはいけないと悩みました。1968年、米国でキング牧師が暗殺されたニュースを聞き、私は大泉学園の駅前でビラをまくようになりました。訴えたのは、反戦と朝霞野戦病院の撤去でした」

 和田さんは大泉地区の市民に呼びかけ、反戦市民団体「大泉市民の集い」を組織した。おくれてきた「ベ平連」系市民団体であった。

和田「今から思えば、ベ平連は、市民が自由意志で参加する緩やかな無党派の活動として戦後市民運動の画期的なスタートでした。日本のリベラルの限界をやぶり、市民運動の可能性をさぐる始まりだったのではないでしょうか…」

 「ベトナムに平和を!」を唯一のスローガンとして出発したベ平連だったが、1967年に米空母イントレピッドからの脱走兵4人の国外脱出を助けたことから、市民運動の体質変化を起こし始めた。全国に活動が広がる一方で、新左翼党派の運動をこえる迫力、実効性を帯びてきた。さらに小田氏の提起から加害者責任を自覚し、日本のあり方を批判する運動に変わっていったのである。73年、ベトナム戦争終結を決めたパリ和平協定が結ばれると、ベ平連は解散した。

 しかしベ平連の人々は活動を続けた。鶴見俊輔氏も小田実氏も朝鮮問題に目を向けるようになった。

金大中拉致事件の衝撃

金大中氏に死刑判決が下った際に和田春樹さん(右端)らが開いた抗議の記者会見=1981年1月、東京都内

和田「その中で73年、韓国の野党大統領候補、金大中(キム・デジュン)氏が東京のホテルから白昼、韓国中央情報部(KCIA)の手で拉致される事件が飛び込んで来たのです。これがベ平連系市民運動の人々を朝鮮半島と結びつける衝撃的な始まりでした」

 和田は「日本の対韓政策をただし韓国民主化闘争に連帯する日本連絡会議」(日韓連帯連絡会議)の事務局長を引き受け、日韓問題へと傾斜していく。

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